寸感/「死と乙女」

 縁あって、あるところで「死と乙女」と些かの関わりを持つこととなったので、このことについて少し感想を述べてみる。
 「あるところ」というのは「日本アマチュア演奏家協会」という大層な名前の付いた全国組織 ----- つまり、ヴァイオリンなどの楽器好きのアマチュアが集まって、技量、年齢、地域等を超えた合奏活動を楽しむというものである(私はチェロ)。
 全国で千人ほどの会員がいて、創立以来もう数十年になるが、増えも減りもしない。つまり、会員の多寡が問題なのではなく、本当に音楽(室内楽)が好きな連中だけが集まる集団なのだ。各地で「例会」と称する合奏会があり、地域あるいは地域近隣の愛好家たちが定期的に集まって音楽を楽しむこととしている。
 この活動のいいところは、受け身だけの趣味活動ではなく、練習すれば必ず少しは報いられ、練習しなければ絶対にうまくはなれない----つまり、自己責任で楽しめるかどうかという見極め/因果応報がはっきりしていることである。身分、年齢、学歴、謝礼金、口利き等はまず通用しない世界。お陰で、例えば定年退職者でも自分の居場所に困るということはなさそうだ。もっとも、技量にははっきりとした差が現れるが、これは自分の実の丈に合った相手を見つける、あるいは例会幹事に斡旋して貰うことによって何とか解決出来るこことなっている。


 さて、「死と乙女」とは ----- シューベルトの数ある弦楽四重奏曲中の傑出した名曲である。世に弦楽四重奏曲は多数あるが、そのなかでも名作として知られている。技巧も半端ではない。しかし、難しければ難しいほど、何か人を惹き付ける魔性のようなものを持っている作品だ。


 まず「死と乙女」という曲名の由来だが、第2楽章の主テーマが、歌曲「死と乙女」(シューベルト)に拠っているということらしい。
 ある知人が、私がこの曲に興味を持っていることを知って「乙女」関連の私製CD を贈ってくれたのだが、そこには滅多に聞けない「歌曲」も納められていた。
 事実は「歌曲」そのものではなく、その伴奏部分から第2楽章が作られていたということである。
 歌は K.フェリアという女性歌手とかの有名なシャリアピンのものだったが、そこに僅かに聞こえる伴奏部分はまさに「乙女」の原型というべきものだった。
 シューベルトはこの部分を発展、展開させて 15分に及ぼうとする第2楽章を創造したのである。シューベルトの天才と湧くが如き創造力には感嘆するほかないが、彼はこの大曲の一片を試みに用いて歌曲を作ってみたという感じがしないでもない。シューベルトは、たまたま食事中のレストランのナプキンか何かに、その時思いついた歌曲を書き付けたというほどの才能だったのであるから。


 そのCDには、懐かしいカペーやレナー(往年の名弦楽四重奏団)の「乙女」の演奏も収録されている。技量の確かさは抜群だが、その表情が歴史ものという点を除くとしても、私が最も敬愛し、師匠とも仰ぐ ウイーン コンツエルトハウス弦楽四重奏団の名演には及ばないように思う。
 例えば、第1楽章中の目も眩むような難所に更に輪をかけたようなカデンツア様のところ ----- 多くの名人たちが流石に手が縺れて行き悩むような箇所でも、コンツエルトハウス は、恰も楽しげな アドリブ のような風情でさらりと切り抜けている。見事というほかはない。


「死と乙女」は四つの楽章から成るが、最も原詩の趣きに近いのは第1楽章、とりわけ第2楽章。それ以下は少し趣きが違うような気もするが、これはシューベルトに聞いてみなくては分らない。
 それらは、ショパンにおける芸術的な意味合いを持つ練習曲群に相当する感じがある、と言ってはシューベルトに叱られるだろうか。
 いずれの楽章も難しいが、早い第4楽章には練習する必要も感じないほど困難させられる(つまり、弾けないということ)。


 この第2楽章は、前述のように歌曲「死と乙女」の伴奏部分を主題とし、以下、五つの変奏曲とコーダから成っている。第2変奏は多くのチェリストの最高の喜びであり、かつ、懊悩の極みでもあるチェロのソロがあるが、最も親近感を覚えるのは、激しいアレグロを経た後に訪れる穏やかな長調の部分(第4変奏)。ここを聞くと、私は何故か往年の名画「未完成交響楽」(「未完成交響曲」ではない」)の一場面を思い出してしまう。
 その一場面というのは ----- 豪邸を抜け出た伯爵令嬢カロリーヌが、一面に広がった金色の麦畑のなかを駆け抜け、そこで待つ音楽教師シューベルト と最後の逢い引きを重ね別れ告げる。(このカロリーヌは、伯爵邸サロンでシューベルトが新作「未完成交響曲」を披露した時、何かの折に突然笑い出して、これに怒ったシューベルトが折角の第3楽章以下の楽譜を破り捨ててしまうという、つまり、「未完成交響曲」が未完に終った謎を物語る、という設定になっていた)。


 ここの音楽からは、麦畑を吹きわたる一陣の風と、令嬢と別れたあとのシューベルトの哀しい心情までも感じることが出来る。この後、音楽は再び暗転し、激しく揺れ動いた後、癒しの部分を迎え終曲に至る。
シューベルトの和声には、常に他の比類を許さないような、何か懐かしい人恋しいような風情がある。彼の時代背景を考えると、その作風は時代を超えた天才的なものというほかはなかろう)。


 最後に参考までに、「死と乙女の」歌詞を紹介しておこう。
<原詩「死と乙女」>クラウデイウス

(乙女)
 行っておくれ ああ行っておくれ
 行っておくれ 乱暴な死神よ
 私はまだ若いのです 行っておくれ
 私にさわらないで
(死の神)
 おまえの手をおくれ 美しくやさしい 
 娘よ
 きげんよくしなさい 私は乱暴なんか
 しないのだよ
 私の腕のなかで安らかに眠らせてあげ
 るのだよ
         (訳/佐々木 庸一) 


<権兵衛の一言> 
 若い身空で死に身を委ねる乙女の心根を謳ったものだが、不思議に死にまつわる恐怖感とか絶望感はない。救いがあり癒しがある。この作品が世の多くの人に愛好される所以かもしれない。