両雄 並び立たず?

 
同格の医師と歴史学者は「 並び立つか」という、些か子供じみた頭の体操である。
 しかし、人の命にかかわるとなると、容易には結論は出せない。


群馬大学病院で8人もの過失致死?と見られる医療事故問題は、何が原因か。
 一人の医師のミスだと疑われているようだが、何故そんな重大ミスが看過されるのか。

 
 医療の世界は、我々の日常から遠い、いわば密室のなかの出来事だから、名作「白い巨塔」(山崎豊子)をもってしてもその実像は分りづらいものがある。


 私の乏しい入院経験での見聞では、医療スタッフの責任体制から見ていかないと真相には迫りにくいものがあろう。
 例えば、こういう立錐はどうだろう。群馬大では「その医師」に全権が任されていて、他が口を挟む余地がなかった------.
普通、通院/入院すると一人の主治医が決まる。主治医は医局等の意見を徴することはあっても、最終的な決定権は彼にあるとされているのであろう。主治医が何人も居ては責任の所在が曖昧になる。
 この意味では「両雄 並び立たず」である。
 私の経験はこうだった。
 胆石の疑いで入院し、担当主治医は熱心に看てくれて、お腹に棲息していると見られ、酷い痛みを齎す胆石を探し出そうとしてくれていた。見付かれば後は手術で除くだけのこと。しかし、どうやっても見付からない。私は時限爆弾を抱えたままで退院を迎えることになった。
 ところが、主治医に口出しをして説得出来る人物が一人だけ居た。上司の内科部長である。部長は自分が直接内視鏡で見てやろう、と提案し、その結果私の石が見付かり、引き継ぎを受けた外科医の執刀で石は除かれ、以後全く後遺症もない。


 病院も人間の世界だから「いろいろと」あるのは当然に推測出来る。
 近くは理研STAP細胞問題もあり、責任の所在が問題となった。STAP細胞騒ぎは直接人の生死には関係しないが(自殺者は出たが)、群馬大の問題は多くのことを考えさせられる問題であり、今後への影響も大きい。


● もう一方の歴史に関わる「両雄」問題。
 これは、歴史小説を趣味とする人には関心があるところかもしれない。

死んでたまるか

死んでたまるか

 近頃、これは面白いと思って読んだ本に「国家の盛衰」(渡辺昇一、本村凌二)がある。
 どこがどう面白いか、というと、
 ----- 普通、歴史書は一人の学者が書くものだろうが、ここでは二人が、小さな見出し(例えば、ローマ衰退の理由)毎に、ほぼ同じような文章を述べる。「同じような」といっても二人の史観や史実の捉え方は少しずつ異なり、例証も挿話も異なる。
 一人の著者が他の史観/史実を排しながら書く文章とは少し赴きが違って、読者にはそこが面白いと感じられることになる。読者は無責任だから、まずは「面白さ」が先に立ち、それが正確であればなお良い、と考えるものだ。

 
 今日買ってきた本は「死んでたまるか」(伊東潤)だが、著者はこう言っている。
 既に歴史の経緯を知っている読者に、出来るだけ納得出来る形で新しいものを提示する。それが歴史の解釈であり、醍醐味である。(了)。