高倉、YouTube 革命? 

高倉健の辞世の句 
 世に知られるようになった一句、


 往く道は精進にして、忍びて終り、悔いなし


 私も座右の銘に頂戴しようかと思っているのだが、


 「忍びて、終り悔いなし」なのか「忍びて終り、悔いなし」なのか二説あって、少し迷うところがあった。ところが、最近見たものでは、


「忍びて終り悔いなし」となっていて、これなら悟りに縁遠い素人でも迷うことはない。

 この「精進」や「忍びて終り悔いなし」に関して、人が解説して曰く、
 ーーー これを時間に直しと「1万時間」になるのだと説く。


 例に挙げられた天才モーツアルトは、早くから神童と言われたにも拘らず精進怠りなく、まだ青年らしい客気が残る最初のピアノ協奏曲を作曲するまでには、約3500時間の勉強を経ている、と言う。弦楽四重奏曲にしても若気といったところが抜けきれす、後世、人を驚かせるk.387 以降の傑作群を生み出すまでに、研鑽の日々を重ねたと言われている。


 経済評論家/勝間和代氏は、外資系会社で活躍した身であるのに、語学では苦労し、英語マスターのためには最低ます 1000時間の努力を惜しむな、と力説している。世間では語学に文法は不要だとか、速成は可能である、といった説が蔓延しているのに対する精一杯の反論/正論であろう。
 「1万時間」と比べれば「1000時間」は僅かなものだが、それでも勝間氏の声が世論をリードするには至っていない。文科省も小学校への英語導入には熱心ンだが、一方での国語重視の声には殆ど無関心であるかのようだ。


日本は有難い国で、義務教育以来、一切の勉強を日本語に依拠し、しかもそれでノーベル賞授賞者を多数輩出している。こんな国は他に例がない。
 英語を勉強するのは結構なことだが、海外で出て苦労するのは本人だけで誰も変わってあげることは出来ない。本人だけが苦労するという仕組みになっているから、傍でそう心配することもなかろう。
 私の意見は、学校を卒業するまでに、日本語でしっかりとした考えを持ち、それを海外で活かすためには、社会人になってからでも充分に間に合うだろう、------といったところ。
 つまり、日本語で順序立ててものを話せない人が、英語でスラスラ話せる筈はなかとう、というものである。
 その前には「1000時間」の初期投資(時間)が必要となるが。これをケチると「忍びても悔いは残る」ことになるのではなかろうか。
 「1万時間」だと10年くらいかかる計算になるそうだが「1000時間」は1年くらいだそうだ。80年の生涯と見て、「1年」の苦労は長いのか短いのか、思案のしどころであろう。


YouTube 革命?

持ち重りする薔薇の花

持ち重りする薔薇の花

 
最近、YouTubeの精度が上がり、私の安物パソコンでもなんとか見られるようになった。もっと精度が上がればCDなど買わなくてもすむようになるだろう。しかし、一方で、古いLPレコードの人気が復活したりして、人の好みが一様でないことも分る。
 私としては、いま楽器で練習中の曲がどのようなものなのか、精度は悪くても大体の輪郭が分ればそれでよい。
 いままではYouTubeで視聴出来る演奏は定評のあるプロのものだったが、最近は少し頂けないものも見かけるようになった。------- アマチュア演奏家の投稿演奏である。
 いままで「投稿動画」として人を楽しませてきたものに、アマチュアの演奏が仲間入りしたものだ。
 しかし、これは(残念ながら)頂けないものが多い。プロが丹精込めた演奏でさえ、あれこれと批評(難癖)が加えられるものを、アマチュアの生煮えのものが無傷ですむわけがない。
 アマチュアの天狗たちのなかには、自宅で練習してきて、そのまま本番ステージに臨む猛者も居るので、これはアマチュアのレベルがそこまで上がった、と好意的に理解すべきなのなのかもしれない。その上で、自分たちの演奏が茶の間で視聴する(させられる)人たちの好み、批評に耐えうるものかそうか、一歩退いて考える余裕があれば良いと思われる。


 クラシック音楽は、とかく「理解出来ない」「堅苦しい」「高尚だ」とかの批評を受けてきた。それにコンサート等で聴衆に公開されるのはごく一部で、活動の多くは密室でシコシコと訳の分らぬ高尚なことをやっている------という印象は免れえない。


 YouTubeのお陰でアマチュア音楽の実体が広く世の中に知られ、いままで近寄り難かった「高尚な趣味」が、一般庶民でも楽しめる「普通の趣味」ということが理解されれば、これはクラシック音楽普及の面からも極めて意義のあることと思われる次第。
 天狗の鼻が多少低くなるのは我慢のしどころ、ということになるのだろう。(了)。