時事寸感(2)福田総裁誕生 ほか


自民党総裁選挙について、最も印象に残った事の一つは「派閥」問題だった。
 小泉前総理の政治信条の一つは「自民党をぶっこわす」だったが、今回の選挙ではその成果が現れている、と感じたものだった。
 マスコミ等は「派閥」を記事作成の拠り所として、何
につけても「派閥」を問題にしようとしていたが、時代は少し先へ進んでいるようで、何かマスコミが時代に取り残されているのではないか、というような印象すら受けた次第であった。
 早い話、少し前までは、派閥間の話し合い(密室)で総理を選ぶのが常道で、「選挙で選ぼう」などと言えば、すぐさま「党内にしこりが残る」「党が分裂する」などの声が上がって選挙論議は日の目を見ないことが多かったように思う。
 それが、最近ではどうか。総裁立候補者が少ないと、「これでは国民の顔向け出来ない」「自民党は密室政治から脱却出来ないのか」「政策をアッピールする機会を自ら閉ざしている」などの声で騒がしい限りだ。
 隔世の感があるではないか。


 新総裁の誕生とともに、注目されるのが「テロ特措法
」をめぐっての民主党の対応である。
 テロ対応についての各国(含・日本)への感謝を含む国連決議については、ある民主党幹部は「茶番だ」と発言された由。流石にこれは日本以外の「他の国」に対して失礼である、と思われたのか、再び目に触れることはないが、「反対」という民主党の態度は変わらない。
 ある解説によると、インド洋での給油活動の必要性の有無よりも、国連決議と日本の対応を処する原理原則のほうが大切であるのだ、という。
 原理原則は勿論大事だが、現実に給油という国際貢献問題を後回しにすることが、今後の政権担当能力有無問題とどう絡んでくるのか、これから論議の種となりそうだ。
 国連の(感謝)決議は、「必要条件」ではあるが「充分条件」ではない、という話も聞いた。
 国民はこんな評論家風の論議に付き合っている暇はない、と思われるのだが、どうであろうか。
北海道大学寮歌
 テレビで、過去1万人の卒業生を出したという北大学生寮の今昔を紹介する番組を見た。
 プライバシーとうものが全くなく、落書きとゴミが散らばる、学生自治の学寮の生活(自炊)を拝見しながら、こうした形で青春を発散、しかも、そのなかで、自治、自己責任、共生、友情等の尊さを学び、肩を組んで寮歌を高吟出来る若者たちを、つくずくと羨ましく感じたのは事実である。
 平凡に過した私の青春は如何にも貧しかった。そして、再び若き日を取り戻すことの出来ない寂寥感。
 大学では、寮生全員が赤フンドシを纏い、札幌市内を練り歩く行事を恒例としていたそうだが、一部市民の苦情で取りやめたという。残念なことだ。
チャイコフスキーに感動
 N響の演奏で 、久しぶりにチャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」第1楽章を聞き、涙が出るほどの感動を覚えた。
 この曲は「お涙頂戴曲」の最右翼曲として有名なのだが、まさにその通りの曲だ。
 批評家になかには、この曲を軽んずる人が多いようだが、それがどうしたというのだろうか。
 私は昔、アマチュアオーケストラで、この曲を演奏する機会を得た。激しい激動の時を経て、心優しい鎮魂のメロデイが訪れる。それに加えて、全管弦楽の音の渦のなかで至福の時を過す時間にも恵まれる。
 そして、やがて全弦楽器が粛々と味わい深いピチカートを奏するなか、極めて印象深い終末を迎えるのである。
 私は楽器を離れて久しいが、出来ることならもう一度、この音の渦に巻き込まれてみたいものだ、と思った事だった。


<権兵衛の一言>
 命短し 恋せよ乙女
 心の炎 消えぬ間に