あなたへ(再録)

 高倉健の訃報に接し、以前に投稿したものを再録してみました。いまは、遺骨を残した妻/田中裕子がどんな思いで演じたのかを知りたいものだ、と思います。多彩な俳優陣のなかでは、大滝秀治が印象的でした。
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このほど、テレビで、評判のドラマ「あなたへ」が放映されたのですが、見損なったのでDVDを買ってみました。降旗康男 監督作品、高倉健、田中裕子 主演。
 まだ見ていませんので迂闊なことは申せませんが、以下はDVD解説書を見ての感想です。


「迂闊なことは申せません」と書きましたのは、ドラマの主題が人の生死という俄には扱えないことを主題にしているからです。
 解説書によりますすと、主人公(高倉)は妻(田中)を病で亡くし、その遺言に「遺骨を故郷の海に散骨して欲しい」とあったことから、ワゴン車で十数日間の旅に出て、そこでいろいろな人との出会いを通じて感慨を深める、という筋立てとなっています。


 遺骨を通例のようにお墓の納めずに散骨する、といのは(法の規制もあるらしく)まだ一般的とは言えないでしょうが、それについての興味(と言っていいのでしょうか)もあります。
 先年、「千の風に乗って」という歌が流行しましたが、その歌詞には「私(故人)はお墓のなかには居ません」というのがあって、お墓に詣る人の数が減った、という冗談のような話があります。
 散骨というのは、この冗談?話が示すように、故人に対する世間の受け止め方の変化の一つ、と理解することもできましょう。葬儀の形も家族葬直葬の形に変わってきつつあります。
 変わったところでは、遺骨を小さなカプセルに入れて、宇宙ロケットで天空に打ち上げ、そこでブースターとともに燃え尽きる(空中散骨)という壮大なプロジェクトもあるようですが、何でも数百万円はかかるそうですから、一般的とはいえないでしょう。
 これを聞いたある人が、そんなことをしては宇宙が汚れて困るる、と怒ったそうですが、そういう次元の話なのでしょうか。遺骨は周囲を汚すようなものではない、丁重に取り扱うべきもの、とまず考えるところから出発すべきものなのでしょう。
 あるいは、打ち上げたカプセルが、静止衛星のように天空のある一点で静止してくれるようにすれば、人は夜ごと空を見上げて故人を偲ぶことが出来ましょう。「星に願いを」という名歌の雰囲気にぴったりです。


 関係者の配慮の一端を示すものは、最近話題の公園葬というものでしょうか。これは遺骨をお墓ではなく、公園の樹木の基にほうむって母なる地球の土に還す、という考えによるものだそうです。


 お墓詣りの様式も変わった----- こうした風潮は必ずしも、故人よりも今生きている人のほあうが大事----- という意味ではないでしょう。「千の風に乗って」が示すように、故人はお墓のなかに居るよりは、直接に我々の心のなかに、あるいは、見上げる夜空の星座のなかに居るのだ、と考えるのも一面ではより自然であり、故人への供養に繋がる、という考え方もあっていいのではないか、と思われるのです。
 私の好きな詩の一つに、かっての大戦での戦没学生の作品があります。


 遠い残雪のやうな希みよ、光ってあれ。
 たとへそれが何の光であらうとも
 虚無の人をみちびく力とはなるであらう。
(特に感銘を受ける部分は)


 同じ地点に異なる星を仰ぐ者の
 寂蓼とそして精神の自由のみ
 俺が人間であったことを思ひ出させてくれるのだ。
(田辺利宏)

 まだ二十歳代の青年が、戦地にあってこのような透徹した考えを抱くことについては、胸が塞がるような感銘とともに、心からの畏敬の念を禁じえません。

 本題に戻りましょう。
 高倉は妻の遺志に従って故郷に向かいます。その途次のいろいろな出会いや出来事につては映像を見てのこととなりますが、解説を見るだけでも様々な思いが胸をよぎります。


 まず主人公/高倉ですが、映画のなかでは彼の心象風景はどのように、どこまで描かれているのか。これは、まさに「あなたへ」というこのドラマの主題に直結するものでしょうが、解説を読む限りでは、そこがどうもハッキリしないようです。
 高倉は昔からその渋い演技を愛するファンが多く、そのややぶっきらぼうな言動や人間像が却って人気となっているようです(このほど文化勲章を受賞しました)。解説には高倉のメッセージもしるされていますが、ドラマが主題とする人の生死や散骨についての直接のコメントはなく、死に別れが切ない、人は哀しい存在である、というようなことが簡素な筆致で述べられているだけというような感じです。あるいは、それで充分なのかもしれませんが。


 解説には、撮影で高倉と共演したりした多くの人たちの高倉像が語られていますが、映画の主題に関するものは皆無で、殆どは「ぶっきらぼうで、しかも、どこか暖かい高倉像」についての印象を異口同音のように語っているだけです。妻役の田中にしてもそうです。


 これはどうしたことでしょうか。生死のことは誰しも口にはし難い問題ではあるにせよ、ここでは皆さんは敢えてこの問題を避け、撮影という仕事だけに思考停止状態で参加したのでしょうか。
 そうとは思えませんが、これは恐らく解説書編集者がそこまで求めなかったからかもしれません。
 しかし、ドラマを見る者としては、高倉像よりもむしろ(当然のように)映画の主題に関係者はどのように向きあって仕事をしたのか、そこからどういう感慨を得たのか、観客に何を訴えたいのか----- どうしてもそこまでのものを求めたくなります。それでこその解説書ではないでしょうか。


 責任者である降旗監督は、流石にそうはいかないでしょう。
 監督の映画作り---- それは主題をどう活かす作りとするのか、ということに尽きるのでしょうが、そこにはいろいろな模索があったようです。当然でしょう。
 まず、高倉が遺骨を胸にして散骨への旅に出る、ところからして問題となるのでしょう。旅に出ないで、妻と生きた土地での人との触れ合いや語らいのなかに生死問題の解を見出す、という案もあるでしょう。
 実際には、旅の途次、いろいろな人との出会いのなかで、高倉自身も変化し、そこにみずからの旅の意義をも見出す----- そのあたりに落ち着いたようです。
 ここでは「ロードムービー」という言葉が使われていましたが、道行き(ロード)に従って、人は変わり(高められ)、そこに一種の安住の地を見出す、といったようなことでしょうか。一種の大河小説のようでもあります。


 映画作品としてはこれで出来上がるようなものでしょうが、しかし、なお求めたくなるようなものがあります。
 それは夫に依頼して、散骨に身を委ねることにした妻の、そこに至るまでの心境(依ってきたるもの、変化、推移)です。
 妻(故人)はどういう思いで、夫の旅や途中での人びととの出会いの意味を見ているのでしょうか。
 「ロードムービー」にそこまで求めるのは無理かもしれませんが、やはりもう一歩踏み込んだものを期待したいような気持があります。


 「ロードムービー」では、どんなに努力しても、所詮は「こちら側」の人間の物語となってしまい、妻の心境までは描き切れないでしょう。
 この妻の心境と散骨への旅をする夫の心を併せて描いてこそ、このドラマは完結する-----ように思われるのですが、それは無理なことでしょうか。
 どう努力しても「あちら側」の人の周辺にまで立ち入ることは出来ないものと見えます。監督や脚本の責任(限界)なのでしょうか。

 重松清の小説に「その日のまえに」というのがあります。妻の死後三ヶ月後に夫が目にした妻の遺書に、


 ----- 私のことは忘れていいよ


という趣旨の書き置きがあったそうです。
 これはどう理解すればよいのでしょうか。「三ヶ月後」ということに重たい意味があるのでしょうか。
「こちら側」と「あちら側」が互いに歩みよらなければ、納得のいく道筋や解決は見られないように思われます。


 やはり、問題が問題だけに、迂闊なことは申せないような気がする、というのが正直なところです。

あなたへ (幻冬舎文庫)

あなたへ (幻冬舎文庫)