<寸感> 大衆音楽、ラヴェル、クラシック音楽の命運

● 愛される大衆音楽とは?
ある辛口批評によると、音楽界は限定商品を特定消費者に売るだけ、またアマチュア層は未来の消費者層たりえるか、とされていた。
 当然に異論はあるだろうが、ある音楽雑誌が行った管弦楽曲ランキング調査では、第一位がなんと「春の祭典」、以下「牧神の午後」「英雄の生涯」「ダフニス」「ラ ヴァルス」だそうだ。しかし、選者は音楽評論家、音楽ジャーナリストたちだとか----- これには、庶民の人々、アマチュアオーケストラや室内楽を楽しむ実質的に音楽界の下支えとなっている人たち、それに、ややクラシックは高踏的だと感じていながら、支持を惜しまない人や企業メセナの方たちの意見/実感は反映されているのだろうか。
 このランキングには、大衆が親しむベートーヴェンモーツアルトシューベルトチャイコフスキードヴォルザークなどの名前はなかった。


 この「ランキング」は、何の、それに誰のためのランキングを示しているのだうか。
 素人の私が見た「ランキング」では、高位3位は今も昔も「新世界」「運命」「未完成」。まさに音楽界での「巨人」「大鵬」「卵焼き」的存在である。
 今更 、「新世界」か。あの受け狙いの俗物性がたまらない、と言われるのかもしれないが、その「受け狙いの俗物性」それを大衆は望み、何回でも聞きたいと思っているのではないか。
 演劇では、公演後、出口に団員たちが整列して「お客様」を見送るのが当たり前の光景となっているとか。ある勇気ある?アマオケがこれを実行したという話も聞く。合唱団では珍しくもないそうだ。
  庶民感覚からすると、東京芸術劇場(池袋)で如何に高級な芸術活動が行われようと、劇場周辺の地域社会にさしたる経済的な見返りをもたらさない劇場は無用の存在-----という声があるそうだ。
 海外のある都市では、劇場の入場料だけでは赤字なのに、劇場周辺の施設(商店、レストラン、公園、美術館、スポーツセンター等)の計画的な開発のお陰で、総合的には黒字という例もあるとか。
 以前、東京のある区に同様の開発計画がある、とか聞いたことがあるが、どうなったことやら。
 趣味の音楽がこうまでしなくては楽しめないというのは大変なことである。しかし、音楽は家庭の域を出て大衆のもものとなるためには、ある程度の社会的な支えがなくてはなかなか発展しないものでもあるのだ。


ドビュッシー&ラヴェル : 弦楽四重奏曲

ドビュッシー&ラヴェル : 弦楽四重奏曲

ラヴェルは大衆音楽として親しめるか。
 全国的な室内楽愛好家の組織としてエイパ(日本アマチュア演奏家協会)がるが、ここででは、合奏の例会や年次大会等で実に多彩な曲を取り上げるが、このラヴェル弦楽四重奏曲については演奏されたのかどうかあまり記憶がない。(ドビュッシーラヴェル/ピアノトリオは演奏されたようだが)。
 この名曲は難曲としても有名で、プロでも相当程度の気構えが必要だと聞く。気構えだけならアマチュアにもあるが弾けはしない。私は、昔、よせばよいのに楽譜を見てしまって、すぐお倉入り。練習する必要も認められなかった。
 それでも、第1楽章は、ちゃんとした分り易いソナタ形式になっていて、なんだかやれそうな雰囲気もある(と見えるところが曲者だ)。
 実は、この第1楽章が、桂離宮(京都)の紹介番組(テレビ)の背景音楽に使われており、それが実に不即不離、ぴったりと馴染んで聞こえることに一驚した。和声はいまは誰も驚かない現/近代音楽風だが、それでもクール、理知的、清澄、人間味豊かで、より前衛的なショススタコヴィッチとは違う。それに、なんとなくホンノリしたお色気の風情までも。フォーレが更に洗練され、ドビュッシーを遠目に見て、ラヴェルはすぐ我々の傍に居る。画家でいえばクレー か。 
 但し、第2楽章以下は、残念ながら、というよりも当然に見送り。第1楽章にしても、新鮮な和声は、新たな運指と音の表情を要求して、きちんとした粒立ての、例えばモーツアルトの音列すら扱いかねている素人を混乱させる。美しい旋律の流れは(美しい薔薇にはトゲがある)、突然、常識に反した方角に流れて奏者を悩ませる。音程の難しさときたら、ここと思えばまたあちら、合っているのか違っているのか、それすら分らない。
 しかし、なんという不思議で魅力的な音楽なんだろう。ヴァイオリンとヴィオラのユニゾン(第2主題)の新鮮な感覚、あるいは、ヴァイオリンとチェロの不思議な融合-----百年も前から既に知己であるかのような親近感すらあるではないか。ラヴェルと聞けばボレロしか思い浮かばない素人の常識は完全に打ち破られる。この曲の「使用前」と「使用後」とでは、住んでいる音楽の世界がまるで変わってしまった。
 新しい発見だった。


クラシック音楽の命運
 以前、ある音楽家の印象批評のようなものだったが、クラシック音楽の命運についての感想のようなものがあった。以後、随分と時代も変わってはいるが、断片的に思い出してみる。
クラシック音楽に未来はあるか? という問いに対して、
 ----- 役目を終えてはいないと思うが。  
 表現形式も楽器も完成しているから、それを上回る魅力を持った音楽がこの先出現するかどうか。
◇ クラシックは、そもそも、愛好家人口が広がる性質の音楽ではなかった。


  ------- よく見ているようなところもあり、納得しにくい面があり、やや、控えめ過ぎる面もある。
 しかし、東京がニューヨーク、ウイーン、ロンドン等に比して、世界有数の音楽都市となっているということは認められよう。一般庶民には普及しているか、という点では諸説がありうるだろう。
 東京だけで十指にあまるプロオケがある、ということはどう理解されるのだろう。チェロの大会があり、千人ものチェリストが大挙して押し掛ける、と、いう話は当たり前か、それとも? また10,000人の「第九」は?
 このような事態を招いたことについては、いろいろな分析があろうが、まず、学校での音楽教育の充実、余暇/文化行政のお陰で、オジサン、オバサンの音楽学習に前向きな意識改革が行われたこと。かってのバブルの余恵で、全国に立派な音楽ホールが建設されたこと。合唱運動の普及が「第九」や市民オペラを後押ししたこと。これらのなかで、エイパの果たした役割も忘れられてはならないだろう。
 アメリカでは庶民の音楽活動はどうなっているのか分らないが、オーケストラは一時、ジャズ音楽の普及で押され気味になった、という話を聞いたことがある。これを救ったのがフルオーケストラを活用する映画音楽とミュージカルであったという話は面白い。私は、とりわけ庶民に音楽の楽しみを与えるミュ–ジカルは、20世紀最大の発明品で、アメリカ独自の文化遺産ではあるまいか、と思っている。


 総じて、私はクラシック音楽には明るい未来があり、 役目を終えるどころではあるまい、と思っているのである。
 深川の芸者さんたちが、あでやかな着物姿で「第九」を歌っていたり、小学生のオーケストラが「第九」を演奏したりしている実情を見れば、音楽大国日本の底力に感銘を受けないものはいないだろう。