元気なオバサン、楽器と言葉

<寸感> 元気なオバサン、楽器と言葉
● 元気なオバサン
 近所で見かけるそのオバサンは、以前スピッツを可愛がっていた。それ以前に、我が家に14年居たスピッツが亡くなった後、テリヤを飼うこととなったのだが、その前後に、若いスピッツがいるので貰わないかという話が来ていたのだが、それはテリヤが来た後のことだった。
 オバサンには問わず語りで、そのスピッツは我が家に来る運命だったのかもしれないよ、などと話していたものだったが、オバサンの可愛がりようは我が子に対するが如しで、その幸せな様子を見て私も安心したものだった。
 やがてそのスピッツは亡くなり、我が家のテリヤもその後を追った。オバサンは姿を見せなり、あとで分ったのだが難病を患ったのだとか。
 ところが、暫くして再び姿を見せた彼女は、近くのスポ–ツセンターに通っているとかで、若々しいタイツ姿になって、愛犬を失った悲しみもどこか癒されている様子で、再度安心したものだった。
 最近、センター帰りの彼女に出会ったのだが、10歳くらいも若返った様子で、私の手を捕まえてしきりにセンターへ勧誘するのだった。以前には見られなかったその積極性にも驚かされたものだ。センターには指導員(学生アルバイト)たちが居て、お客たちの接遇をするのがお役目だが、積極的な彼女は指導員たちにも人気があるらしく、それも、お説教までしたりするものだから、すっかり人生の先輩格としての役回りまで引き受けている様子。私が出会ったのもそのオーラが出始めた頃らしい。
 人生に前向きなのは素晴しい。
 私もすっかり彼女のファン/信者になって、センター行きを半ば約束してしまった次第。私はスポーツには無縁なのだが、むしろ、人生の牽引役としての彼女の信徒としてセンターに出向くことになるのかもしれない。
 ひょっとしたら、主人思いの愛犬たちのお導びきだったのかもしれない。


●楽器と言葉
 音楽人の為の文章術の本が出たそうだ(書評誌)。------「音楽を語る言葉/探る言葉」岡田暁生。(原著/「音楽の文章術」リチャード ウインジェル。
 文章術とはなっているが、実はそれ以上に、音楽人としての心得を説いたものらしい。
 まず、音楽人には、楽器を演奏する「実技系」の人と、音楽を専門的、楽理的に専攻する「音楽学系」があるとする。「実技系」の人は、コンサート会場のステージなどで我々の目にふれ、その演奏を拝聴することが出来るが「音楽学系」の方は、普通、音楽大学奥の院に居られ、時に音楽論考を新聞紙面等で拝読することになる。
(*)アマチュアの私の実感としては、この区分はあまり切実な区分ではない。「実技系」は、多少でも楽理を知っておかなくては巧く演奏出来ないだろうし、「音楽学系」も、演奏実技の心得がなくては、血の通った文章が書ける筈がないからである。
(*)岡田暁生氏は京都大学人文科学研究所教授。音大の先生でないところが面白い。


 実は文章術を隠れ蓑のようにして、その説くところの「音楽人としての心得」は、特に「実技系」にとって、どこか辛口のようだ。
 まず、「実技系」は、音楽を言葉で表し、内容までを伝えようとすることに反発、あるいは無関心でる。音を文章で捉えることは不可能であると思っていて、(心中、秘かに)音楽は文字を越えて、音(演奏)で表現出来る、と思っている。
 著者は、まずこれが不満である。
 これはプロ演奏家のことのようであるが、アマチュア演奏家の間でもそのようで、アマチュアのオーケストラでも室内楽でも、作品の「解説」等には論議はかまびすしいが、内容面に立ち入った論述などは、手薄というのが実情らしい。


 著者の目は、音楽人の将来設計にまで及んでいて、文章術が必要なのは、実は「実技系」人間なのではないか、と見る。
 ソリストになれるほどの一握りの人は別として、教職に付くことになる演奏家は、言葉無しで生徒を指導することが出来るのだろうか。
 いまどき、実技指導は、愛情と根性だ、と思っている教師は流石に少ないだろうが、愛情と根性は必要なものではあるにしろ、それだけでは生徒の大成を期待する事は出来ない。
 演奏の実技は、実は頭の働きによるもので「勘」と「度胸」による、と思われるこのあるヴァイオリン演奏にも、理屈に合った指導法が確立されているのである。
 例えば、指を置く目印が一切付いていないヴァイオリンの指板の上には、ちゃんと指を置く位置が決められていて、その位置を千変萬化、自在に変化/駆使するところに、パガニーニの目も眩むような神業が成立することになるのである。
 神業と言っては素人には近寄り難いので、科学的演奏手法と言ってもよい。


 ヴァイオリンを抱えて生まれてきたような、先天的に弦楽器演奏の才能の恵まれたハンガリーの人たち(習ったこともなく、また楽譜もなくて巧みに演奏できる)は別として、音楽学校の器楽科に入る学生たちは、この「科学的演奏手法」を頼りに勉強しているわけである。


 実は、この「科学的演奏手法」にも問題があって、言葉を用いずに愛情と根性だけで指導しようとする先生がいるようだ、と著者は睨んでいる。
 こうした先生や学生には教師業は勤まらない。著者の言葉を借りるなら、こうした教師は、レッスンで、
 「どうして弾けないの」
 と叫ぶことぐらいしか出来ないのである。もし生徒から「どうして、もっと巧く弾けるように指導してくれないの」と反問されたら、返答に窮することだろう。
 これが愛情と根性による指導の実体だとしたら、生徒が可哀想ではありませんか。


 私の知人のヴァイオリン教師は、「頭」(理屈)での指導に巧みで、全くの初心者を、5年くりいの期間で難曲メンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲全楽章制覇に導いた実績がある。
 ヴァイオリンを持って数年でステージに立っほどの神童は別として、音大に入って、この曲を課題としている生徒は珍しいとは言えないだろう。
 ただ楽譜の音符を音に出来るだけでは「弾ける」ということにはならないからである。
(日本では、父親だけの指導で、12
歳くらいでステージに立ち、数々のコンチェル等を内容豊かに弾きこなし、当時の巨匠オイストラフを唸らせた、という話がある。音大の名門/芸大や桐朋の権威が確立する前の話である)。


 言葉による指導、という面で、最近興味ある広告を目にした。
 それは、ヴァイオリン演奏を、子供に英語(外国人教師)で教えます、というものである。
 日本人の多くが憧れる英会話と楽器の英才教育を同時に可能にしよう、という発想なのだろうが、問題なしとしない。
 ます、言葉が分らない子供に、楽器演奏の理屈を(しかも英語で)教える事は不可能だから、授業はお遊びにしかなりはしないか。メリットは子供が外人に物怖じしなくなり、発音に多少慣れるということでしょうか。
 英語は、まず日本語との発想の違いから(日本語で)学んで、しかも(文法用例を含む)英文を多読しなければマスターは困難でしょう。


 文章術とは、単なる文字の操作だけでなく、頭の総合訓練に繋がるものであるという、かなり厄介なものだ。
 音楽でも英語でも、軽く見るとしっぺ返しを食らうものであるらしいことが、良く分ります。
 この逆境をはね返して、文章を手玉にとり、音楽も英語もマスターする術は貴方次第----- という厄介なことになりますね。

音楽の文章術―レポートの作成から表現の技法まで

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