指揮者、アイクラ、初見、グルメ

<寸感> 指揮者、アイクラ、初見、グルメ
● オーケストラ の指揮者
 あるアマチュアオーケストラ

でのこと。指揮者多忙とのことで交代論議が始まった。
 論議は、新人材発見と登用、任期、人柄、経費負担等に及ぶが、実際に棒を振ってもらう以外には決め手がない。また、一旦声をかけた以上はすぐ断るわけにもいかないのが難点である。
 論議が一巡停滞したところ、ある意見が出てきた。
 指揮者登用の手続き論ばかりで時を過ごしていないで、次ぎのことを「ただ、やってみればば良い」ではないか、という速戦即決論である。それは、
 ◇ 「ピアノ」と「フォルテ」 の確認、
 ◇ 旋律を歌わせる、こと
 ◇ ハーモニーの確認、
 ◇ パート間の掛け合い の確認 


 例えば「歌う」については百の論議があろうとも、実際には、現指揮者、団員(あるいは素人、ロボット)等の誰でもよいから指揮台に立って、演奏が良かろうが悪かろうが、ただ、
 「駄目だ」
 「もう一度」
 だけを壊れたレコードのように繰り返していればよいのではないか------ という趣旨である。 
 「駄目だ」と言われれば、どんな演奏者にも思い当ることが山ほどある筈だ。それに、どのオーケストラでも、上記の諸項目を時間をかけて実行している、というところは少ないのではあるまいか。
 論より証拠。


 しかし、実際には現指揮者の体面上の問題や指揮法に煩い方がたからの原理原則論等があって、この方法が実践されることは少なのではないか、と思われる。


 考えてみれば上記の4命題(「ピアノ」と「フォルテ」の確認等)については、なお検討の必要がある。
 つまり、指揮者が「1,2,3,4」と棒を振る技術などは、まともな人間であれば誰でも出来ることである。
 難しいのは------ 新機軸が求められるのは「どのように 1,2,3,4 と棒を振ればよいのか、という指揮の内容である。その点にこそフルトヴェングラーやトシカニーニの存在価値が認められてきたのであろう。
 これを単なる棒振り技術に加えての(音楽の)「演出」と考えてみればどうなのだろう。
 指揮者交代論というのは、単に若くて気鋭の指揮者を求めるということではなく「演出」を心得た人材を求める、ということになる。
 それならば、現在の指揮者にも「演出」面を心得た指揮を勉強して貰えば良い、ということになるのではあるまいか。


 オペラ公演では、指揮者のほかに演出家が重要な役割を演ずる。むしろ演出家が指揮者よりも重用されている、と見られることすらある。
 指揮者もオペラを経験してこそ一人前、と言われることがあるのには立派な理由があるのである。


● 初見力とは何か。
 初見力------ 譜面を見て、それをすぐさま音として表現出来る能力、は自慢になるものだろうか。プロには必要な能力ではあるが、その「音楽」としての出来栄え として見た場合はどうか。
 囁かれていることは(失礼ながら)「初見力」は条件反射に近いものがあり、それだけで終って、人を感動させることが少ない、ということである。あまり反論が聞かれたという記憶もないわけであるが。


 初見力が弱いのは残念なことであるが、後々からの研鑽で内容のある音楽に仕上げることは可能である(のではあるまいか------ 素人論議に終りそうであるが)。


 聞いた話だが、技術の高いアマチュア演奏家の間では、初見で公演をクリア出来ることが、一種の勲章と見られているそうだ。
 プロが公演前に必死で練習し、無事に公演を終えた後も、なお批評家の厳しい評価に晒されることを思うと、何か索然としたものを感じてしまうことがあるのも事実である。

 
● 「アイネ クライネ ナハト ムジーク」(「小夜曲」。モーツアルト)の処遇
 この優れた名曲はアマチュアの世界では軽く扱われることが多いようだ。
 理由は「取り組み易い」と見られて、あまりにも安易に弾き飛ばされ過ぎるからではなかろうか。
 丁寧にやってみれば、1 音をも揺るがせに出来ぬ、優れた構成や音の運びに、誰でもたじろがさるえない筈であるが。
 この名曲を詰らなくしたのは、この曲を好んで演奏(弾き飛ばす)アマチュアのせいではないか、と思われることがある。


孤独のグルメ
 音楽には関係ない世界の話であるが、毎週水曜日夜に標題のテレビ番組があある。
 自営業の中年紳士が、食事のために街中を散策し、気に入った店で黙々と食事をする------ ただそれだけの異色の内容である。
 内田百間の小説にあるが、主人公が何の用件もないのに、ただ東京から大阪へ汽車に乗って帰ってくる、というそれだけの話を見事な短編に仕上げたものだ。
  孤独のグルメ-----近来にない出色の着想------ ただ食事をするだけの番組を見てそう思った。
 しかし、伝わってくるものは、ただそれだけのものではない。
 まず見知らぬ店に初めて入って行く時の一寸した不安、違和感、期待感。
 そして店主の飾らぬ接遇の態度、その奥さんを含めた店員たちの動き、初めて見るメニューへの新鮮な興味と驚き、長考した挙句に出された料理を賞味する時の緊張感、期待以上の美味への感動 ------ それは、グルメガイドを読んでは、並び、待たされ、ただ食べて「おいしい、うまい」と言うだけの人に分かるものではない。
 それに、誰にも知られず食事出来る、自分だけの都会の匿名性の秘かな楽しみ。
 店の内外を見渡せば、誰も主人公に構わず、家族連れ、あるいは一人で食事を楽しんでいる人たちの心根も伝わってくる。飾らぬ人生の一編がそこにある。


 (孤独な)食事そして音楽、その楽しみ方に我々が忘れているものはないだろうか。
 周囲に付和雷同して、音楽を楽しんだつもりになっていることはないのだろうか。


(*)テレビ批評欄など見ていると、このドラマはセット撮影でなく、実際の御店でロケされたことが分かる。
 そのお陰か、店に客が押し寄せるようになって「街起こし」になる、と囃されたりしている。------- が、一寸違うのではないか。
 これでは「孤独の〜」と題された番組の企画内容が活かされなくなってしまうではないか。