自分流音楽

 

讃歌 (朝日文庫)

讃歌 (朝日文庫)

直木賞作家/篠田節子氏の趣味はチェロの演奏だそうです。その篠田氏が音楽小説「讃歌」を書かれているとか。書評で知りました。
 まだ読んでいませんので、内容はよく分かりませんが、音楽の技術面だけでなく、日本の音楽家が持つ音楽観というか、思い込み、それに時代風潮みたいなものが描かれているらしいので、是非読んでみようと思っておます。


 少し分かっているところでは、内容は次ぎのようなものです。
 ------ ある日本の演奏家が「優れている」と言われるまでに成長し、夢と希望とともにアメリカに留学します。ところが指導教授から「お前の演奏は西洋音楽ではない」として、音階練習のみを課題として与えられ、絶望して自殺未遂事件を起し、帰国する羽目となります。


 いまでは流石に表立っては聞かれなくなりましたが、少し前までの音楽教師は好んで「お前の技術は良いが、西洋の音楽になっていない」という叱責とも激励ともつかぬ言葉を生徒に投げかけたものたそうです。
 こんな難しい問題に、生徒は反論するすべもなく、ただ絶望するか発憤するか(才能があれば)しかありません。


 ところで、教師自身は「西洋音楽」を身に付けた上で、そういう言葉を口にしていたのでしょうか。
 まだ海外渡航が自由でなかった時代のこと------ 教師自身も、彼の教師から同じ叱責、激励を受けながら、幻の「西洋音楽」らしきものへの憧憬と模索を「叱責、激励」という形でそのまま生徒に投げかけていたのかもしれません。
 当の西洋人だって十人十色。定まった音楽観がありえたのでしょうか。国情の違いもあります。時流に乗った音楽というものはあったのでしょうが。崇高な音楽と崇められていた筈のバッハの音楽が、長い間忘れられていた、というのも変な話です。


 さて先の話の続きですが、くだんの演奏家は、帰国後立ち直って演奏活動を続け好評を得るのですが、今度は批評家から、その演奏は「演歌風」だと評され、今度は本当に自殺してしまいます。


 日本の演奏家で、自殺しないまでも、こうした音楽の本質---- 西洋音楽、あるいは演歌風、などの捉えどころのない難問を突きつけられて苦しんだ人は多いのではないでしょうか。
 そんななかでも、クラシック演奏家で秘かに演歌を愛する人だって珍しくありません。凄腕のジャズヴァイオリニストはクラシック畑から生まれています。


 時代は流れて、いまは日本人演奏家が憚るところなく自分流の演奏をし、それが海外でも評価されるというところまで来ました。悩むとすれば、自分の技術が自分の欲する音楽像を表現しうるレベルに達しえているか、更には、それが人に感動を与える境地にまで至っているか----- という問題に素直に迫れるとことまで来ています。
 良い時代、あるいは、本当に自分が掛値なしに試される恐い時代になったものです。


 他方、自分の演奏が厳しい評価に晒されたことのない音楽学生やアマチュアたちは、自由に(無責任に)ものが言える時代なのかもしれません。
 芸大卒業、そして音楽コンクール優勝後、演奏家となったある女流演奏家は、難曲とされる曲のCD 化をこなして、演奏家としての一定の評価を確実にしました。
 ところが、彼女の同期の音大生たちのサイトでは、とても客気、覇気、音楽熱に燃えた青年たちとは思えない悪口、誹謗、中傷が氾濫しています。
 そして、愉快なのは、当の非難されている筈の彼女が、まさに当世風というのか、そのサイトに「匿名」で登場して、元気に悪口の応酬をしている姿が頼もしく?映ります。


 一方の音楽教師や評論家も、自分の音楽観が試される恐い時代になったとも言えます。
 以前の話ですが、高名な作曲家の作品について、評価の筆が鈍りがちであったとろに、これも高名な批評家が、少し辛口の批評を加えました。するとどうでしょう。実は私もおかしいと思っていた------ と尻馬に乗った批評家が次々と現われて遠慮のない批評(悪口)三昧。


 冒頭の「ある人の読書評を耳にいたしました」に戻りますが、その人は日本人演奏家の世界的な活躍を多としながらも、「世界的」にの「的」が付くようでは、まだまだだ、としていました。
 「世界的なオザワ」ではなく「世界のオザワ」でなければならない、ということでしょう。


 余談ですが、私が世話になっている小アンサンブルは、普通のアマチュアオーケストラとは少し違っていて、クラシックの小品、セミクラシック作品、シャンソン、そして演歌など、肩の凝らない音楽を中心に動いております。アマチュア演奏家は多くいますが、多くは交響曲とか由緒正しい室内楽を愛する傾向があり、ポピュラーに近いものは敬遠される気味があるようです。
 セミクラシックを弾く機会があっても、事前に熱心に練習する人は少ないようで、その結果演奏が不発に終わっても、演奏者に責任はないという気風です。
 私のアンサンブルは(演奏は上手とは言えませんが)、西洋風でもあり演歌風でもあります。国籍不明、言ってみれば世の評価基準を超えた(外れた)、あるいは別次元のグローバル風とでも言えるのでしょうか。「風」が付いているところが御愛嬌ですが。
 良い時代になったものだ、と自画自賛しておきましょう。


◇ 話題をもう一つ。
 作村河内事件で世間を賑わせた新進作曲家、新垣隆氏ですが、先般テレビ出演し、打って変わった明るい表情で近況を語ってくれました。
 桐朋大講師は辞めて、本来の作曲活動に専念しているらしく、幸いなことに、その作品類は桐朋の同僚、友人たちが手弁当で演奏してくれているのだそうです。
 桐朋の演奏陣となれば、これは当代超一流ですから、これに勝る強力な援軍はありえません。
 一方の作村河内氏の消息は聞きませんが、やはり新垣作品のおこぼれで生活しているのでしょうか。
 持ち分のCD等の売れ行きが落ちているとなれば、これは当然の成り行きかもしれませんが、本来は新垣氏作曲のものですから、持ち主によって作品の評価(売れ行き)が変わるというのはおかしな話(あるいは当代風というか)です。
 クラシックの評価というのは難しいものです。


 やはり自分流というのがが一番なのでしょう。