音楽と年の功

音楽と年の功
 時に、年長者が多く集る音楽団体というものがあります。
 しかし、私は音楽と年齢とはあまり関係ないと思っている者です。
 若者の音楽は若々しく、年輩者の音楽はどこか爺むさい----- こんな例えは全く意味がありません。若者にも覇気にない「爺むさい」音楽しか出来ない人は珍しくないし、年輩者でも技巧、音楽性に優れた人は多くいます。
 

 見るところ、年齢に拘る人には一つの面白い癖があるようで、それは音楽を語る以前に、人の経歴や楽歴だけに興味を示すことのようです。
 コンサートのプログラム(紙)を見ると、出演者の立派な音楽歴が羅列されていることが常のようですが、私は過去の輝かし実績よりも、いまからステージで披露される音楽に、出演者がどう向き合おうとしているのか----- そのあたりの抱負や練習実況を述べた文章にお目にかかりたい、と思っているのですが、ついぞその願いが叶えられたことはありません。


  コンサートの司会者が話題に乏しいか、あるいは「年齢」好きだとすると、オーケストラ紹介の際に、わざわざ最年長者や最小年者を名指ししたり、カルテットの場合などに「四人の年齢を合わせると、驚くなかれ、なんと400歳です!!」なんて言い方が好まれるようです。が、音楽とどういう関係があるのでしょうか。 もし、年寄りの冷水、といった感覚があるのならば失礼な話ではありませんか。
 まだ演奏者が子供である場合には、将来への期待を込めて語られることには多少の意味は認められるかもしれませんが。


 もし音楽に「年の功」が認められるものがあるとしたら、それは、例えば「過ぎし春」(グリーグ)、「愛の挨拶」(エルガー)、「雨」(合唱曲、多田武彦)等を、どれくらいの感情移入を持って鑑賞できるか、といったところにあるのかもしれません。
  こうした音楽の鑑賞こそは、人生のほろ苦さや別離を経験した者にだけ許された特権と言えるものでしょう。
  また、「年の功」には様々な味わいがあるようです。指揮者のタクトや演奏に独自の味を加え、一層の滋味を与えられるのは「年の功」以外にはありえません。


 音楽と年齢とは関係がない、と言いながら、やはり「年の功」には年長者のみが感じ得る功徳があるのは有難いと思うべきでしょう。
 また、功徳というのは、少し人から煙たがられるくらいの強面(こわもて)が発揮されるところにも現れるようです。それは頑固さというよりも、精神の強靭さ、若さ、身体の免疫力を現すものではないでしょうか。


  ある研究によると、80歳の人は20歳と比べ 、筋肉量の減少は30%、肺活量は17%、脳重量は7%で、これらの数値は、年功者に若い人のような激しい運動を控える分別が備わっていることを考慮すると、弦楽器/管楽器双方の演奏能力において、殆ど遜色がないものとされます。
  それにしても、仮に演奏における筋肉量、肺活量の減少を重く見るとすると、これらのマイナス面をむしろ「ピアニッシモ」の演奏に活かせるプラスの面が注目に値します。
 「ピアニッシモ」こそは、音楽の神髄を活かせる唯一のもの----- と私は考えているからです。
 以前、私が居たオーケストラの指揮者の口癖は、


 フォルテの音楽は、馬鹿でも子供でも出来る。 「ピアニッシモ」がこなせるのは大人だけだ。


  これこそは、年功者のみがなし得る得意技の極みで、若者には容易に追従し得ないレベルのものではないでしょうか。
 ただ「ピアニッシモ」の演奏は精神的/肉体的な疲労を伴いますが、これは年齢とは関係はありません。
 疲労を伴わないような「ピアニッシモ」は偽物なのです。一方、「フォルテ」では一向に疲れないように思われるのは不思議なくらいですね。


愛の挨拶?イギリスの優しき調べ/デイヴィス

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