寸感など/楽譜、ほか

寸感など/楽譜、ほか
◇ 楽譜のこと
 音楽の楽しみ/真骨頂の一つは合奏にあるのだが、楽譜は弾く人によって様々なことを伝えてくれる。
 ある時、合奏場面で何となく「 rit 」(ゆっくりする)したら「そんなものは楽譜に書いてないじゃないか」と叱られたことがある。
 よく合奏は楽譜に忠実に、と教えられることがあるが、これはどういう意味なのだろうか。本当の意味で楽譜に忠実に演奏したら、花も実もない詰らない演奏になってしまい、とても「音」を「楽」しむどころではない。「忠実に」ということなら電子楽器に演奏させればよいだけのことだ。オーケストラ演奏でも指揮者は不要となる。


 思うに、楽譜はパソコンと同じく人類の偉大な発明品の一つではあるが万能ではなく当然に限界がある。パソコンも楽譜も活かすのは人次第である。
 楽譜を見て、そこに書いてない「 rit 」をするか、しないか、を選べるのが人間というものではないか。そこから自然に感想なり意見なりの交換が行われてこその合奏だ、というのが私の実感である。 
 演奏中、万感胸に迫って何も言えない----- ほどの羨ましい境地もありえよう、とも思えるのだが。
 特にオペラ系やシャンソンのように歌の多い曲の場合、楽譜は溢れるような楽想を限界のある音符に盛り込むのが精一杯、であるから、あまり楽譜に捉われた演奏をしては却って作曲家の意図に添えないことにもなりかねないのではあるまいか。


◇ 音楽観
 楽譜による演奏は、奏者の音楽観によることとなるのが当然。しかも、これが千差万別、となるのが面白い。普通「rit」「歌え」とあると、テンポが遅めになると思われるのだが、ここが不思議なところ----- 人によっては違ったテンポが「歌」になることがある。従って、同じ内容のCDが売れることになるのだ。
 「ポルタメント」を入れて歌わせようとするのは、タンゴの達人が一人でやるならともかく、言うは易く行うは難し。「ポルタメント」をどう扱うかは奏者によって違うからだ。事前の研究が必要。
 音楽観の違う人が合奏したらどうなるのか。実は、その壮大な実験場が人間の合奏場面なのである。


 プロのオケでは、違った音楽観の人は排除されることがある。天才クライスラーは、ウイーンフイル/セカンドの採用試験に落ちた(セカンドは難しい)。
 が、そのお陰で世界はクライスラーという天才を失わずにすんだのである


◇ 弦楽器の音程
 ヴァイオリンという楽器はもともと平均的な人間の体格を考え併せて設計/制作されてある筈だが、楽器の指板の上で音程を作る人の「指の太さ」までは計算出来ていない。
 名匠たちの演奏を見て(聞いて)いて、いつも不思議でならないのは、彼らの太い指から正確極まりない音程が生まれてくることだ。何でも出来るから名匠なのだ、と言われればそれまでだが、特にヴァイオリンの高音部で単純に(太い)指を指板に置いただけでは正確な音程は取れない筈なのに----- 何か特別な仕掛けがあるに違いない、と、思わせられるのが素人の悲しさである。
 チェロは指板が大きいので、運指にはあまり問題がないように思われるが、しかし、高音部になると魔法のような指使いが要求されているようで、やはり、ここも素人立ち入るべからずの領域なのだろう。


フラジオレット(指を軽く弦上に置いて笛のような透明な音を出す)。
 この奏法の難点は、一度出した音には修正がきかないという点である。
 演奏中に環境が変化し、しかも楽器への配慮を怠ったりしていると、思いがけない仕返しを受けることがある。部屋の室温が上がったり、管/弦の楽器が熱演で暖まったりすると、とかく管は音程が上がり、弦は下がったりする。ここでうっかりフラジオを出すと、覿面に(相対的に)「低い音」が出て、出たら最後、修正がきかないまま思わぬ恥を晒すこととなる。
 フラジオが複数人の場合も調整が効かないから要注意。清澄、純粋であるべきフラジオが不純、不快なものになる。
 音を出す部屋の構造も問題で、特に残響を案配するような手当てがしてあるような部屋だと、自分の意図に反した音が出てくることがある。しかも「自分の意図」が人によって異なるから厄介なことになる。
 人の聴覚も様々で、特に高音の聞こえようが異なるから、場合によっては思いがけない不評を蒙ることがあるのだ。(アマチュアはこれしきのことには驚かないが)。
 名人のCDを聴いていて、最も感動的な演奏の締めくくりの音(フラジオ)が低いと一瞬にして興醒め----- 終り悪ければすべて悪し。 
 これは演奏側とともにCD制作側の責任ということにもなるのだろうか。


◇「l検索ソフト」
 パソコンの「検索ソフト」は便利なものだが、無くても何とか過せるものだ。
 私の実感では、あれば助けになり、いろいろな参考資料を取り込むことが出来る。
 しかし、自分がそれだけ「賢く」なれわけでもない、ということがよく分かる。
 学校の(特に文系の)宿題等は「引用」(いわゆるコピペ)だらけで、「引用」が多いほど勉強熱心に見えるが、それはあくまで手段であって「成果」「新しいものの発見」そのものではない。
 小保方さん(万能細胞)の実験ノートが杜撰だと非難されているが、ノートが貧弱でも、天才でありうることは出来るわけだろう。克明に綴られた実験ノートで「几帳面」ということが分かるだけで、才能を証明してくれるわけではあるまい。
 数学や物理の天才でも、学生時代は平凡な存在だった、という話はよく聞くことだ。