「佐村騒動」余聞、クレモナ 

3/10、作村河内の記者会見は「謝罪会見」のように見えながら、実は小さい私怨を吐露するだけの締まりのないものに終始したような感があります。


◇ 佐村河内は、作曲については「指示書」を示して作曲を依頼したので、恰も作品が「協同制作」のような印象付けをしようと強弁していたようでしたが、あの抽象絵画のような「指示」で果たして(現代音楽ならともかく?)人を感動させるような調性音楽が作曲出来るものかどうか、私のような素人でも甚だ疑問に思えます。
 「指示」をするとすれば、せめて「旋律」の一部を示し、これの続きを書け、あるいは、変奏曲を作れ、と言うのなら理解出来ますが。


 ベートーヴェン「運命」交響曲第1楽章は極めて単純なモチーフを基に作り上げられた傑作ですが、あの簡単なモチーフをこなせるのは一人ベートーヴェンの才能があればこその話で、佐村河内はその真似すら出来ない程度のレベルであったことは明らかです。
 モーツアルトは「レクイエムを」という依頼人の一言だけで、なんら指示書を必要とせずに大傑作(未完のまま死去)を作曲しましたが。


◇ 佐村河内の算段は、専ら「事実でない話がある」として新垣氏を名誉毀損で訴えることに集中している点が、我々素人にも納得しがたいところです。
 あれだけ世間を騒がせ、他人の作品にオンブして虚名と印税を手に入れ、広島市民、東北被災地の人々、レコード会社、報道機関、CD購入者、自分をパパと呼ばせた少女、高橋選手、多くの一般大衆等を欺いた彼に「守るべき名誉」が一体どこにあるのか----- 潔くない、男らしくない、というのが私の印象です。


◇ 今度の事件が厄介なのは、相手が掴まえどころのない、所謂「高尚な」クラシック音楽である点です。今になって「俺もオカシイと思っていた」とか「ペテン師だ」とか、いろいろな声が喧しいですが「美談」に弱い我々の体質は(私も)そう変わるものではなく、今後とも続くと考えておいたほうがよさそうです。
 真偽を見抜く目を持て、と言われたところで、どうすればよいのでしょうか。


◇ 新垣氏の今後
 彼は「共犯」とまでは言えないと思いますが、相当の返り血を浴びてしまい、これでは学生たちの慰留運動があっても、桐朋大学には居辛くなってしまうのではないか、と思います。
 好奇の目に晒され、再び実力が評価されて世に出るまでに、辛い日々が続きそうです。
 しかし、クラシックは、俗に言うような「高尚」そのものの世界ではなさそうだ、そこに居るのは我々と同じ煩悩に満ちた一般人だ、という事実を世に啓蒙してくれた点は買っていいのではないかと思いますね。


 曾野綾子氏は新垣氏(佐村河内)の交響曲第1番を聞き、佳曲だと評していました。その背景として、昨今の作曲界の弊を指摘されているようでした。つまり、現代音楽のみを良しとして、シーベルトドヴォルザーク風の素晴しい調性音楽を蔑ろにする傾向です。
 何故、大衆が喜んで迎えようとする音楽が軽視されなければならないのでしょうか。この点にもっと大きな関心が払われて然るべきではないでしょうか。
 新垣氏に期待したいと思います。


◇「美談に弱い体質はそう変わるものでは」と、さきほど申しました。
 佐村事件を取り上げた週刊文春に、早速、面白い記事が出ています(2014.3.13)。
東北の大震災での倒壊家屋の木材と「奇跡の一本松」を材料としたヴァイオリンが、復興のシンボルとして有名になり、皇太子殿下が演奏(ヴィオラ)され、天皇陛下も用いられる御予定(チェロ)だとあります。
 一方で、これを着想し、楽器を制作した人の経歴がどうだとかが報じられているのですが、復興のシンボルとして、その音楽が東北の人びとの慰安とも心の支えともなるのなら「美談」とされるのも良いと思います。


 問題は楽器の制作者を「美談」に寄りかかったもの、として報じようとしている次元の異なる記事内容です。
 言うまでもなく、ヴァイオリンに、聞く人の心を癒す効果があるのは勿論ですが、その価値は「美談」とは別次元で語らなければならないものです。
 ここで使われる楽器は、津波(塩水)に侵されていますから、ヴァイオリン本来の音色を発揮できえないものと思われます。


 イタリアに名器が生まれたは、イタリア特有の地勢のみが生み出せた良材によるものです。私はストラデイヴァリのような傑作が再現出来ない理由はここにあるのではないか、と思っているくらいです。少なくとも日本産の材木は名器作りには向いていません。


 塩水に漬かった弦楽器を再生させたという実話があります。その昔、タイタニックが沈没する寸前まで、乗客を元気付けようと、甲板で弦楽合奏を続け、船と楽器と運命をともにした演奏者たちがいました。
 後日、楽器が引き上げられ、バラバラになっていたものが修復されて演奏されたわけですが、これは楽器の質にかかわりなく「美談」として通用します。


 東北でも津波に漬かったピアノが再生され演奏されたという話があり、ピアノは交換可能な部品が多いために、再生は可能だと思われます。しかし、木材が中心となるヴァイオリンの完全修復は、まず難しいと見なくてはなりますまい。


 いくら「真偽を見抜く目を持て」と言われても難しいことですね。


<余談>
 最近のクレモナ(ストラデイヴァリを生んだヴァイオリン製作のメッカ)の現状と問題点を調査研究した研究レポートがインターネット上で発表されました。
「クレモナにおけるヴァイオリン製作の現状と課題」大木裕子、古賀広志(京都産業大学)。
 これは公的資金日本学術振興会/科学研究費補助金)による依託研究のようですが、こうした面にもサポートが及ぶことは歓迎すべきことと思われます。
 レポートの結論として、この件については、更なる研究を進めることが課題、とされていましたが、楽器は工業製品ではないので、こうした結論に導かれるのは自然なことかもしれません。美術工芸品としてのヴァイオリンの評価あh可能かもしれませんが「美音」の鑑定は極めて難しいものでしょう。
 世界のヴァイオリン製作専門学校についても触れられていますが、日本での扱いは「各種学校」に準じたものとしかならないのでしょうか。それに日本では優れたヴァイオリンを制作出来るだけの良材が得られ難いという問題があります。
 最近は日本の職人さんも(お菓子作りも含む)世界の檜舞台で活躍するようになりましたから、もっと光が当てられていい分野かと思われます。


 私の存じ寄りのヴァイオリン制作者(故人)は、クレモナのヴァイオリン制作コンクール「音色」部門金賞を獲得された方です。その工房を訪ね、制作過程の一部を拝見したのですが、例えば、板を切り出すのに、日本のノコギリを用いるなど、伝統的な手法を遵守されておられました。工作機械を用いるなどは、この世界ではタブーとされているようです。
 そして一つの工程が終わるごとに、部屋の切り屑などを丁寧に掃除されていた姿が印象的でした。

ヴァイオリン (1975年) (岩波新書)

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