今後は如何に? 新垣さん

 

交響曲第一番

交響曲第一番

クラシック界での代作(ゴーストライター)問題といえば、これまで殆どは名器ストラデイヴァヴァリウスの偽物発覚! といった類のものだったが、今回報じられている偽ベートーヴェンこと佐村河内事件は、音楽界のみならず社会全般に与えた衝撃からみても類のないもののようです。
 以前、芸大の先生の破廉恥事件----- 楽器斡旋売買での収賄事件のようなものがありましたが、これは官公立学校教員だからこそ起った問題で、私(学)の教師らにまでは及ばず尻抜けの感があった、という事情はあるにせよ、波紋は局地的という範囲に留まりました。


 今回は代作事件に留まらず、身体障害者の心情を傷つけ、被爆ヒロシマの名に便乗して私利を謀った後味の悪さが問われます。
 佐村河内作品を大々的に持ち上げたNHK は謝罪、広島市広島市民賞を取り消し、CD店等では、偽装食品なみに彼の作品回収を始めた(却ってこの話題の作品を欲しがる客が増えた)とか。


 そもそも「現代のベートーヴェン」というのがおかしいですね。全聾の作曲家という点が似ているだけで作品内容は「不問」に近い。クラシックというのは、やはり庶民には分かり難いもののようです。
 では専門家はどう見ているのか。
 実はこれが曖昧なのです。(週刊誌情報ですが)音楽家N氏によれば「時にはバッハ風、時にはマーラー風に美しい響きの瞬間は随所にあるが、それらが刹那的な感動の域を超えることがない」。
 ------ これは一体何を言っているのでしょうか。褒めているのかクサしているのか。こうした斑ら評価では何も分かったことにはなりません。
 しかし、佐村作品が評判になったことについては「絶賛」に近い評論家の後押しがありました。その例は、
◇ I 氏/ 佐村の交響曲第一番《HIROSHIMA》は、戦後の最高の鎮魂曲であり、未来への予感をはらんだ交響曲である 。これは日本の音楽界が世界に発信する魂の交響曲なのだ。
◇ N氏/これは相当に命を削って生み出された音楽。 初めてこの曲を聴いたときに私は素直に感動した。 1000年ぐらい前の音楽から現代に至るまでの音楽史上の様々な作品を知り尽くしていないと書けない作品。 本当に苦悩を極めた人からしか生まれてこない音楽。
◇ K氏/もっとも悲劇的な、苦渋に満ちた交響曲を書いた人は誰か? 私の答は決まっている。 佐村河内の交響曲第1番である 。
◇ S氏/予備知識なしにこの作品を聴いたのだが、大きな衝撃を受けた 。まずは曲の素晴らしさに驚き、


 こうしたことからNHKが特番を組み、作品が格別に売り上げを伸ばすことになったのは自然な成り行きだったのでしょう。
 しかし評判作「HIROSIMA」は当初からその題名でなく、最初は「別名」だったとか。風を読んで乗り換えたのでしょうか。
 当の佐村は楽譜は書けず、ピアノも満足に弾けなかったそうです。あの作曲「指示書」は彼の妻のもの。全聾を装ったのは良くないですが、悪いことは出来ないもので、彼が手話を介さずに会話が出来たことは、あるいは読唇術で補うことは出来ても、扉チャイムが鳴ったのに、来客を前にしながらウッカリ応答してしまったのはまずかったですね。


 ところで幾多の評判作を作曲(代作)した桐朋大学の新垣隆氏の今後はどうなるのでしょうか。
 いま佐村名義の全国コンサート企画が次々とキャンセルされているそうですが、これを仮に「新垣隆作品特集コンサート」とでも衣替えして興行は可能なのでしょうか。
 一つには著作権問題があります。新垣氏は佐村から単に作品制作の依頼を受け、引き渡しとともに報酬を受け取ってしまっているので、作品の所有権等はその時点で消滅しているのではないでしょうか。
 あとは佐村がどう使用しようが勝手、ということになりますが、しかし、佐村作品があまりに有名になり過ぎたため、自責の念にかられた新垣氏が世間への公表を、と考えたのがこの事件の全容だと思われます。


 佐村(新垣)作品をフイギュア演技での使用を考えた高橋選手は「作品が気に入っている」からと、継続して使用するとしていますが、コンサート中止、作品CDや楽譜の販売/レンタル中止等から波及して、いまや数億円規模の賠償問題や当局(厚労省?)の調査等の動きが伝えられるまでになりました。
 世間では、代作問題は政治家のスピーチ執筆、芸能界での自伝、台本作り、ファンレターの返信代作等の各般で広く行なわれていることだ、とされていますが、新垣氏は諸作品を佐村との共作としておけば何ら問題はなかったと言われています。
 後になってからなら何とでも言えますが、物事の発端当時にはいろりろと事情があって、そこは曰く言い難い難しい世界なのでしょう。
 しかし、新垣氏に依頼をこなし世評を呼ぶだけの能力があったからこそ、の話です。それでお金が貰える(額の問題ではなく)というのは評価出来ることではないでしょうか。
 これで紆余曲折はあったものの、新垣氏の腕前は一定の評価を得たようなものですので、これからは一人の作曲家として発展してもらいたいものだ、と私は思います。
 しかし、「斑ら評価」では困ります。今度こそは専門家をも唸らせるものでなくては。
 実際に専門家が唸らされている例があります。
 作曲家/池辺晋一郎ドヴォルザークの音符たち」という本では、ドヴォルザークの音楽がその独創性において優れている点を、音符解析によって実証しようとしています。
 例とされた「新世界」交響曲では、第4楽章で「普通程度」の作品ではなく「これ以外の作例はありえない」「実にうまいものだ」という実感を込めて譜例を示しています。
 偉大なドヴォルザークなら褒められて当たり前かもしれませんが、新進作曲家たるもの、やはりこれくらいの評価をえられるくらいに頑張って貰いたいものですね。


 新垣氏は、職場の桐朋大に辞表を出したそうですが、学生たちの反対署名運動もあり、白紙に戻されたと報じられています。
 暫く時間をおいて、私も心を空しくして「HIROSIMA」を聞いてみたいものだと思っています。
 世間ではこの「HIROSIMA」をベートーヴェンの本場であるウイーンとかに持っていって、そこで本物に聞こえるかどうか査定して貰えば、などの声があるそうですが、まずは自分の耳で聞いて好き嫌いを判断すればよいのではないでしょうか。
 今度の事件は、そのことの大切さを教えてくれているようです。
 「好き」の反対語は「嫌い」ではなく「無関心」だと言われることがあります。「嫌い」ならその原因を明らかにするとかの対応がありえますが「無関心」ではどうにもなりません。
 こんどのことがクラシックに対する世間の関心を呼び、その発展に貢献してくれれば禍い転じて幸いなことになるではありませんか。