寸感/丸出し、電話&西洋音楽と日本人

◇ 馬鹿丸出し
 礼節を欠いた題名ですが、これ以外に思いつくものがないので、敢えて掲げさせて頂きました。


 電話での売り込みで経験させられたことです。
 畳屋、生命保険、金融商品、古物商、などから売り込みの電話がかかってくることは珍しくありませんが、なかには電話帳を見ながら片端から掛けてくるような人もいます。
 生活がかかっているので大変だろうなと思いながら、こちらにも生活がありますので結局はお断りすることになります。
 なかには電話を掛けたのを忘れて再度掛けてくる熱心?な方もおりますが、少し度を過ぎた滑稽とも思われる例が最近、それも2回もありました。
 電話が掛かってきてお断りするパターンは同じなのですが、最後に受ける意外?な質問は、
「貴方のお名前は?」------というものです。
 あれ、電話帳を見ながら掛けているのでは? と思ってこちらから質問すると(既に当方では不快感が兆しています)、相手は電話番号だけを見て相手構わず掛けていて、しかもそれを正直にテレもせずに言うのです。
 馬鹿馬鹿しくなって電話を切るのですが、数日後また同じような電話があり、流石に呆れました。
 どういう人物なのでしょうか。そのくらいの太い神経があれば何事も達成出来ないものはないのではないか、と少し羨ましくも思いました。しかし、お友達には決してなりたくない人物です。


西洋音楽と日本人---- コンプレックス
 洋楽部門国際コンクールで相次いで日本人が高位入賞し、ベルリンフイルハーモニーのコンサートマスターに日本人が就任する時代です。
 しかし、いまになっても日本人には洋楽が演奏出来るのか、といったコンプレックス丸出しのような「質問」が活きていて、人を困らせたり、質問者本人の意識が曖昧であったりすることがあるようです。
 私にもその質問にはお答え出来ませんが、そもそもそんな質問が成り立つのか、そこらへんからが疑問だ、という思いがあります。


 先年、名門NHK交響楽団を退役した演奏者の文章を読む機会がありましたが、そこには外国人の著名指揮者を遠慮なく「批評」する言葉がありました。
 昔だったら破門扱いでしょう。これを以て直ちに「国際化」というほど甘いものではないとは思いますが、時代は進んでいるのです。あるいはコンプレックス丸出しが、素人にも透けて見える時代とはなりました。


 先日、新聞のコラムにある演奏家が書いていました。
 その方は西洋音楽専門の演奏演奏家なのですが、これまで「日本の歌」などはクラシック音楽の範囲外であると思っていた、と言われます。むしろ、西洋音楽を探求する上で、自分から無意識に日本を排除しようとしていた----- とも。
 それが先般の東日本大震災で一変し、「浜辺の歌」「故郷」など日本の名曲を積極的に弾くようになり、被災地の方にも喜ばれているとのことです。
 また、指揮者/佐渡裕氏は、バーンステインのもとで修業中、「お前の音楽はシブい(渋い)」と言われ、そこからコンプレックスから解脱することを得た、と語っています。


 この問題はまだ根強く我々の心のなかに残っているようですが、一つの救いは、海外旅行が容易になり、海外で実際に見聞することがどうも日本で流説されていること、偉い人たいの言うことととは違っているのではないか------ そうした素朴な実感が、自然に意識を変えてくれるのではないかという期待感があることです。
<権兵衛の一言>
 小山薫堂「考えないヒント」にこういうくだりがあります。
 何か新しいことを始めるための条件(の一つ)、
 ------ (映画作品)は、「誰の為に」作っているのか、
 「誰をどんな気持」にさせたいのか、


 を考えず、自分のメッセージを伝えたいだけの作品は詰まらない------ とあります。


 例えば「丸出し」問題を回避したいのなら、回り道かもしれませんが、一考してみるだけのものがありはしないでしょうか。

考えないヒント―アイデアはこうして生まれる (幻冬舎新書)

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