私の「カルメン」

 最近になってやっと真打ちオペラ「カルメン」とされるDVDを入手することが出来た。カルロス・クライバー指揮、ゼフイレッリ演出、ウイーン国立歌劇場管弦楽団、ホセがドミンゴという最強の布陣である。 
 もっとも、製作は30年ほど前だから、単に私が知らなかっただけのことであるが。(最近になって、CD/DVDが廉価で供給されるようになったという事情もある)。
 これまで私が持っていたビデオは、所謂定番と言われたレヴァイン指揮、メト歌劇場のものだったが、カルメン/パルツア、ホセ/カレーラスという配役は不足はないとはいえ、少し色艶に不十分な面があるような気がして、いま一つという感じだった。


 クライバードミンゴ版は、殆ど神話化されたクライバーの指揮ぶりが存分に拝めるとあって、そこがまず興味のあるところだった(普通、オペラ指揮者は、最初と最後に画面に出るくらいで、いわば黒子の存在である)。
 そしてゼフイレッリの演出も、これが今後の「カルメン」演出の定番となるかもしれないと囁かれるくらいの存在感を示すものとされていた。
 実際の舞台では、まず登場人物が多く、スペインの街頭風景が活写されている。物売りや遊び回る子供、タバコ工場のやや物欲しげな風情の女工たち。この女性たちや彼女たちがお目あてらしい街の若者/紳士そして兵士たち----- 背丈が揃っていて実に舞台映りが良い。ゼフイレッリが東京でのオペラ上演に際してエキストラを公募した際は、背丈はある規準以上を指定したとされているから、そこにゼフイレッリのこだわりが見られる。


 オケピット内でのクライバーの指揮ぶりは初めて拝見したのだが、いかにも手練のプロらしく、キビキビとした棒で委細を尽くしている。見た目にも快いが指揮されるほうの楽員たちは、さぞや気を遣う(遣わされる)ことだろう。
 「カルメン」の本領とされる「前奏曲」、「ハバネラ」、「闘牛士の歌」「花の歌」等の魅力につてはあらためて述べることもあるまい。
 しかし、何回見ても涙を誘われるのは、第1幕でホセが田舎の母の手紙を持ってはるばると訪れてきた清純な許嫁ミカエラを迎え、彼女が歌う母の消息を耳にし、そして母の真情の籠った手紙を読む-----この名場面を彩る音楽と歌の素晴しいさである。この感動的な場面の背景にあるのは、後日、ミカエラを裏切り、恋敵エスカミリオに心を移してしまったカルメンを刺殺してしまうという第4幕の悲劇である。
 この第4幕の音楽は冒頭から圧巻ともいうべき迫力があり、心に迫る。オーケストラにも新機軸が感じられる。
 勿論、「花の歌」の名旋律、世のすべてのテナー歌手の憧れである「闘牛士の歌」等の魅力は言うまでもないのだが。
 演出面での一つの話題を挙げてみると、カルメンがホセに投げつける花は何か、というもの。
 舞台映えがするということから赤いバラが選ばれることが多いようだが、メリメの原作ではアカシアの花となっているようだ。(ちなみに、原作にはミカエラは登場しない)。


 カセットテープで聞いた「カルメン」の名演といえば、第一人者カラスの「カルメン」がある。
 彼女の「ハバネラ」を耳にするだけで、彼女が並みはずれた名優であることを嫌でも自覚させられ、普通の「カルメン」では満足出来なくなるほどの魅力が感じられる。
 指揮はプレートルでパリ管弦楽団の演奏であったが、ごく小さいことで気になったのは、指揮と合唱に僅かな隙がほの見えることだった。これは指揮者と合唱団の間に距離があることを物語っているのだが、録音というのは厳しいものまでも洩らさず拾ってしまうものだと実感させられたものだ。
 舞台上の合唱団の苦労について、あるテナーから聞かされたことだが、「カルメン」の舞台上での群衆は、男女老若入り乱れて散在する------ つまり、歌手たちは独力で、指揮棒だけを頼りに歌わなければならない、ということだ。これは、各奏者がパート毎に群を作って演奏するオーケストラの連中には考えられない苦労である。それにオーケストラには常に楽譜があるが、歌手やバレリーナはすべてを記憶して演技しなければならないのである。
 舞台上で客席に背中を向けた時でも、常に指揮棒を意識していなければならない。私の暗譜力は5秒とは続かないから、彼ら(邦楽者を含む)の能力には敬服するほかはない。


 私の「カルメン」体験は古いことになる。何時だったのかは忘れたが、東京の二つの区(役所)が「カルメン」を上演したのを見た。一つは2台のピアノ伴奏、もう一つは十数人の少数精鋭のアンサンブルだった。
 簡易版とはいえ熱演で、とりわけ、タバコ工場の女工たちに扮する女性たち(勿論日本人)がタバコをくわえ、精一杯のシナを作る所作が見所であった。スペイン風衣装は自作らしかった。当時の役所の余暇/文化行政のはしりともいうべき事業で、女工さんたちの生涯の快い思い出となったことであろう。


 後年、アマチュアのオーケストラ活動が盛んに(普通のことと)なり、かねてから活発であった合唱団活動と全国規模の公共音楽ホールの整備が進んだお陰で、そられの活動の集大成はオペラの自主公演として結実することとなった。主役級のソリストはプロに御願いし、オーケストラ、合唱、指揮、演出、舞台装置、照明、音響、広報などは殆どがアマチュアの手で捌かれるという事態となったのである。
 私は幸いにも、オーケストラの一員(チェロ)として、その活動の末端に連なることを得た。最初の演目は「アイーダ」、次回が「カルメン」だった。
 参加して分ったことは、想像以上の演奏の困難さ。これが交響曲なら、一定の様式に従って曲は進み、「赤信号、皆で渡れば怖くない」方式(?)で、楽譜が尽きたところで全員の演奏は自然に終了する。ところが、オペラは全編が細切れ楽句の連続と言ってよく、それも不規則に変動し、それに指揮者の思惑や歌手の嗜好によって曲の表情は変わる。オーケストラ奏者は、研修の一環として、まずオペラ伴奏の厳しい訓練を経るようにすれば、怖い者無しの逞しい一流オーケストラに成長出来ることは疑いない、と思えるほどだ。ウイーンフイルなどは、指揮者なしで平気で完奏してしまうほどだ、と言われても、当然だという気がしてしまう。
 勿論、アマチュアオーケストラは逆立ちしても真似出来る技ではないのだが、私が参加したアマチュアオーケストラは、よほど名手が多かったのか、5回くらいの練習で本番を迎えてしまった。アマチュアとはいえ、ただ音楽を専業としていないだけの名手たちがこれほど多いとは、初めて知らされた事実だった。
 それに、これは指揮者がよほど腹の据わった人物で、またオーケストラを信用していなくては出来ないことだ(と分って、後になって冷や汗が出るくらいだ)。
 「アイーダ」の時は、最初の打ち合わせの時、オーケストラ参加の人に「アイーダ」経験者が居ないと聞いて、随分心細い思いをしたものだが、実際には、良く練習して指揮棒に忠実に従うことが出来れば、それで何とかなるものだということが分った。実際に、暗いオケピットに潜って居ると、舞台上の進行状況は全く見えず、歌手たちの声は聞こえてもそれは外国語で何の頼りにもならないものなのであった。
 備え(練習)あれば憂いなし、という言葉の重みを充分に痛感させられた楽しくも苦しい経験だった。
 強く印象に残ったのは、舞台裏で働く、舞台装置、演出、照明、音響等の担当者たちの殆どが、部厚いオペラの総譜を傍らにして仕事をしている姿であった。


 しかし、予算的制約の多い市民オペラでの舞台は、とてもゼフイレッリ演出やメト劇場のように絢爛豪華というわけにはいかない。
 ニューヨークでたまたま拝見したジュリアード音楽院の「蝶々夫人」では、主要な舞台装置や衣装は、メト劇場から借りられたという話であったが。
 蝶々夫人は、勿論鬘を付けた金髪女性だったが、来客に座布団をすすめる時に、わざわざ座布団を裏返して、という演出には、陰の日本人スタッフの存在を感じさせられたものだった。


 しかし、如何に我々の舞台がみすぼらしくとも、素人芝居だ、学芸会だ、と言われようと、参加者全員が熱くなって全力投球した「アイーダ」や「カルメン」------それらの記録ヴィデオを見ると、クライバーに匹敵出来るような名演に見えて(聞こえて)きて、見るたびに感動を(時には涙を)催さずにはいられない。
 同じ学芸会であっても、演奏、合唱、演出、舞台作り、衣装など、それぞれが異なるた分野の仕事を糾合し、常に失敗の恐怖と隣合わせとなりながら、一つの成果を目指す------ これを大人の遊びと言うなら、あらゆる趣味や芸事のうち、最も緊張感と達成の喜びに満ちた、人間にしか出来ない最高の遊びの一つと言ってよういのではなかろうか。
<権兵衛の一言>
 「カルメン」にはいろいろな表現の手法があって、演劇、映画、様々に演出を変えたオペラ作品、等にその成果が見られる。
 サラサーテ作曲「カルメン幻想曲」もその素晴しい成果の一つであろう。この難技巧を極めたヴァイオリン独奏曲には、ハイフェッツのような名人しか近寄ることが出来なかった。最近では多くの名手が挑戦しているが、この曲の名演でデビューを果たした感があるのが、まだ二十代の松田理奈嬢である。若いとはいえその演奏には既に大家の風格が感じられ、私が最も敬愛するヴァイオリニストの一人となっている。同じ曲をドイツの逸材ムターが演奏しているが、松田のほうが一段と上を行くように思えるほどだ。