人様々、そして稚夢/老志

 人様々、と言っても、優れた大作家あるいは哲学者が透徹した人間観察眼で表すもの、古今東西に通用する大文章------に及ぶようなものが私に書ける訳がない。
 せいぜい出来るのは、たまたま目についたものについての雑感を、脈絡もなく並べ立ててみるくらいのことでしかない。以下はその雑感------。
 皆様がそこから何らの成果も得られなかったとしても、それは私の責任ではない(_ _)。


◇ いまはあまり聞かれなくなった(ような)「アラフォー」、「アラサー」、それに乗っかったような「アラカン」という言葉。一方で衰退したように見えるのは「オバタリアン」という言葉だ。「オバタリアン」は衰退というよりは、それが表わす人物像の実態そのものがなくなってしまったような感じがある。
 つまり、皆様が揃って素敵な女性になってしまったのである。
 時代が十年ばかり若返ったのだ、という観察がある。以前、壮年期に差しかかった頃の人の心を惹いた「変容」(伊藤整)という小説。これはいまから30年ほど前に発刊されたものだが、ここに出てくる五十代の男女たちの行動や心理は、いまや六十代、七十代の人間に置き換えてみないと間尺に合わない。(高齢化社会への進展の凄まじさが分る)。
 この小説以後、「老人」という言葉(の定義)がなくなってしまった、という書評があったような記憶がある。更にに進んで、老人が老人らしく(一定のパターンに嵌まって?)生きるのが難ししくなった------ とも。そして「アラフォー」世代も、一定の生活像を見失ってしまい、年代差が曖昧になったという指摘もある。自由に生きられるようになったと見るべきか、それとも、すべてが自己責任で生き辛くなった、と思うべきか。


 少し見方を変えてみると、これまで何となく世の中で通用していたような、「群」としてのある種の老人像や「アラフォー」世代像が崩れ、あるいは拡散し、個としての年輩の人や女性たちの姿が個々に露わになってきたということなのか。
 個性ということよりももっと厳しい、一個の人間としての生き方が問われるようになったということかもしれない。


 先般「おじさん図鑑」という本が発刊され、世の様々なおじさん像が、それも各様に分類されて紹介されて世間の話題となった(先頃、このブログでも取り上げてみた)。
 しかし、どのように分類して紹介しても「おじさん群」として紹介されるだけでは、各人の像の陰に潜む、個々の人間としての生き様が分るわけではなく、私にとってはやや迫力を欠くものとなってしまった。「群」には血が流れていないのだ。
 「アラフォー」についても、「群」として紹介されるだけでは魅力に欠け、やはり個々の生きた女性としての生き様が反映された紹介の仕方があってよいと思われた。群のなかに埋没してしまうには惜しい魅力的な女性は多々存在する筈だ。


 他方、「年寄りの冷水」という言葉が消えて、老若ともども楽しく生きることが抵抗なく受け入れられる社会になった、という見方には説得力がある。
 それとともに、この現実を無視する(あるいは社会の現実を反映するかのような)「軽老」という言葉も生まれ、電車の年寄り優先席の存在意義が問題となりつつあるというのも目新しい現象と思われるのだが。


 いまの時代、「中年」と言えばどのくらいの年代を指すのだろうか。
 ある新鋭女流作家が書いた「中年女性」を主題としたエッセイを読んだことがある。この作家は、政治、文化、社会各般にも鋭い視線がきく敬愛すべき作家なのだが、そのエッセイは、出版社編集部からの依頼によって、読者層を絞って書かかれた文章、と見えた。
 多くの視点のなかから絞られたもの、と思われるのが、海外旅行、買い物、グルメ、装身具、お化粧品等であったが、少し関心を惹いたのは「整形」という言葉、あるいはその事実についての注目度の高さであった。
 つまり、男女とも綺麗になりたいという希望を持つことには何の不都合もある筈がないのに、「整形」したという事実をあまり周囲に知られたくない事情があるのらしい。
 そういうものなのかな、とは思うが、この方面については門外漢の私には分りかねるし、あまり触れてはいけない領域なのかもしれない。


 一つ気がついたのは、結婚とう人生の一つの山を経た人が、そのことに触れることが少ないのではないか、ということ。問題は重大であるにしても、あまりに個人的な要素が多いために、共通の話題にしにくかった、と思うほかはない。
 しかし、「共通の話題にしにくい」ということがどういうことなのか、人間の生活の一部(大部分)を占める大きな事柄だけに、是非「話題」にして欲しいという気持があるのも事実である。


 この種のエッセイ本については、私には手痛い失敗がある。
 ある書店でその種の本を見かけたので、そこの若い女性店員さんに、つい声をかけてしまった。
 ------ 貴女の年齢では、この本の領域までにはまだ随分時間がありますね。


 私の本意は、貴女は若くて多くの時間があるのだから、中年に至るまでの間に、いろいろな可能性を試して、素敵な女性になることが期待出来ますね。
 ということであったが、ところが、口下手な私の言葉は、若い貴女も間もなく、ここに描かれた中年女性になってしまうのですよ。
 ------ と響いてしまったらしく、その方は見る間に機嫌を損じてしまった。
 私には、とっさの間に,上記のような複雑な内容を説明する能力もなく、早々に退散するよりほかはなかったのである。
 口は禍いの元、後悔先にた立たず、申し訳のないことをしてしまった。


◇ 少し訳が分らなくなってしまったが、訳が分らないまま、先へ進もう。
 次の「人様々」は、中年をもう少し過ぎた方のケースである。
 この方はほぼ90 歳のご夫人。50 代で夫を亡くされ、以来、働きながら自活を続けてこられた。この方の著書を拝見すると、仕事、家事、勉強を兼ねた趣味活動、などそのお元気なこと、驚くばかりである。元気というよりも自由気侭に「一人時間」を自主的に楽しく生きる気概は羨ましいばかりだ。
 ただ、読んでいて語るに落ちたことは、この方には娘さんがいて、始終、母のことを心配して家事などを手助けしているとのことだ。これでは「自由気侭な生活」といっても少し目減りしてしまう。
 著書の編集者から「(結婚している)娘さんが主人の都合で遠くへ行ってしまったらどうするのか」という突っ込んだ質問を受けると「仕方がない。それはそれで今の生活を続けるしかない」というお考えのようだが、続けられなくなった時のことまで手当てした上での「自由気侭な生活」を述べて頂くのでなければ、残念ながら私のような読者を満足させることは出来ないだろう。


 この方の本で気がついたことは、亡くなられた夫との結婚生活の思い出や生活観が全く述べられていないことだった。
 「自由気侭な生活」を謳歌し、迷える読者に希望を与えるのが著書の目的であったとしても、結婚が著者の生活や死生観に全く何の陰も落としていない、とは考えにくいことだ。
 夫との結婚生活とその記憶を清算して新生面を開くことが大切であるにしても、無意識のうちにでも、何らかこ痕跡が残っていなくては嘘だ----- といいうふうに私は感じてしまうのだが、どうであろうか。


◇ 次に読んだ本は、今度は妻を亡くされた男性の新生活や人生論が書かれたものであったが、この本にも奥様との生活や死生観についての記述は全くなかった。
 そんなものなのだどうか、また、それでよいのであろうか。私には解けない謎である。
 妻を亡くされた垣添忠生氏(国立がんセンター総長)の著書を読むと、お医者さんが妻を救えなかったという、ある意味 衝撃的な事実はともかくとして、妻の死後の荒れた生活から徐々に立ち直られる様子を真正面から綴られていて、深酒に溺れたという記述にも却って男らしいという感慨を誘われる。
 こういう苦しみを経て、現在も名誉総裁として充実したお仕事を続けておられるということに、納得させられるのである。


 しかし、どうにも納得しがたい事例というのもある。
 ある連載エッセイのことであるが、著者は名のある作家。70年ほどの人生体験を基づいて、いろいろと興味深い話題を提供してくれるのであるが、話は老年問題に傾くことが多い。しかし、どうもその見聞体験が限られていて、話がワンパターンになりやすい。例によく挙げられるサラリーマンは、定年になると、何もするこがなく家に閉じこもって、粗大ゴミになり、妻からは厭われる。それではならじ、と勧告されるのが外に出て自由な空気を満喫することだが、具体的な事例としては、趣味や習い事としての、例えばお茶、お花の稽古。それは女性とお友達になれるからであり、そのことが元気回復の捷径である、というのが著者の専らの主張である。(定年族には、もっと輝いた新生活がある筈なのだが)。
 こういう主題が何度も繰り返されるので少し食傷気味だったが、ある時、女性なら誰でもよいからお友達になれ、というお勧めがあって、これには流石に仰天した。
 編集部はこれで済まされるのか、品位に欠けるとして論難されないのか、と少し心配になったが、どうもそんな様子もない。
 そこで気がついたのだが、普通ならこんな記事は没になっておかしくないところだが、編集部の人たちは、自分の老後の一種の指針としてこれを編集しているのではないか、ということだ。(間違っているかもしれないが)。
 少しおかしい、とは思っても、未経験の老境に関して、先輩の言われることだからそういうものかもしれない------- と思われたとしても、何か分るような気もする。それは私も辿ってきた道であるからだ。
 しかし、未知の世界であるからといって、それについて書かれたものがすべて真実の一端を窺わせるものでもあるまい。
 しかし、一種の怖いもの見たさ------ これも「人様々」ということなのであろうか。


 「恐いもの」と「人様々」------- これについて忘れ難い光景がある。
 アラフォー世代の人たちだったと思うが「貴女の余命は1年、と聞いた時、貴女はどうしますか」 というよくある仮定の質問を受けた時、彼女たちの反応は、「ヤダー、ヤダー」「怖いよう」に類するもののみであった。男でも同じことかもしれない。
 これが「無人島に行って愛読書やCDに身をまかせる」、「すべての知人に会いに行く」など、必ずしも根拠のない返答をしたとしても、これも「人様々」である。質問自体に意味がないのかもしれないが。


 最後に、迫力と意味のありそうな「人様々」の例を一つ。


 稚夢不尽 老志燃


 これは作家/堺屋太一氏の言葉である。いつまでも子供のような夢を失わず、老いても志を貫こう、というほどの意味であろうか。
 堺屋氏は元通産官僚のエリートで、大阪万博を成功させ、作家、評論家として活躍、内閣の閣僚にも名を連ねた。現在は大阪維新の会のブレーンとして活躍中であることは人も知る通り。
 私のブログも、稚語に類するものでお恥ずかしいことだが、これからも志(と恥)を支えとして続けていこう。----- 私にはそのように響いた。
<権兵衛の一言>
 堺屋氏は、なお、周囲の軽蔑と孤独にも耐えなければならない、と申されている。
 この堺屋氏にしてこの言葉あり。

変容 (岩波文庫)

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