「よ」の効用

 ブログ仲間が集ると時に「名文」の話になる。ただ名文を賞讃し、恐れ入るというだけでなく、自分も早く名文が書ける境地に到達したいものだ、という叶わぬ願望を込めてーー。


 文筆家がよく薦めるように、私も名文の筆写を試みたことがある。お手本は藤沢周平の「『用心棒日月抄」。この作品は短編の連作もので、主人公と時代背景は同じでも、毎回題材が変わる。
 藤沢は、新たな読者のために、次作冒頭に数行の前作の梗概を付記している。私も前作を読んでその梗概を数行で書いてみようとしたのだが、どうしても冗長あるいは舌足らずとなり、そこで改めて藤沢の才能に恐れ入るという仕儀となる。当り前のことだ。無駄な抵抗というものである。


 藤沢周平作品は日本語を駆使した傑作ばかりで、敬愛してやまぬ作家だが、その日本語を世界一美しい言語であるとして、コピー制作に励んでいるのが名コピーライターの鈴木康之氏で、その著作「文章がうまくなるコピーライターの読書術」は私の座右の書である。
 よくある名文制作読本のように、古今の名文例を細切れに掘り出してきて、これを真似しなさい、というような切り口ではなく、まずは「名文を読みなさい」というアプローチ。
 しかし、指導はしてくれても、当方に感じ取る力がなければ(早くから読書習慣を付けていなくては)脈はないのだから、ハードルは高い。
 例えば、名文には流れ/旋律のようなものがあり、そこに理屈を持ち込んで「分ろう」としても駄目。旋律と理屈は相反するもので、その相反するものをギュッと一つに纏めたものが名文なのだ------ と、分ったような分らぬようなことを言われる。
 恐れ入りました。これでは、まるで迷文案内をされているようなものではないか。


 いろいろと参考になる(筈の)ヒントが満載なのだが、一つだけ挙げてみると、
 日本語の語尾に付ける「よ」という言葉の効用が最大限に賞揚されている。
 「よ」が何だというのだ、と思っていて説明を聞くと、


「おや、おまえさん、どこへいくのよ」「ちょいとそこまでね」
「そうかい 気をつけておいでよ」
「あいよ」
 ------ まるで理屈に合わない、しかも日本人なら何時でも、どこでででもやっていそうな日常会話だが「よ」のあるなしで、会話の中身/雰囲気が劇的に変わるのは驚くほどだ。外国語でこうしたニュアンスを生み出すことは容易には出来まい。
 「よ」一つで、その場の人間関係、男女別、年齢、人の表情、仕草、眼差し、態度、親近感、までも如実に表現されている、と教えられる。
 名文とは、単に事実や出来事を忠実に伝えるだけでは不合格で、日本人としての心映えまでもが反映されていなくては駄目なものらしい。
 ケータイ、ツイッターなどの短文の枠内では修業が難しい事なのかもしれない。
 本書では、日本語の造形----- 例えば、「む」、「ん」、「無」などの形が齎す心象風景についても語られており、改めて世界一美しいという著者(コピーライター)の日本語への拘りと愛情が感じられる。
<権兵衛の一言>
 外国人が語尾に「よ」を付けて喋り出したらこれは驚異(脅威)だが、彼/彼女が日本という国情に馴染んだかどうかを示す証拠があるとすれば、それはこの「よ」と、そして電話の際に、見えぬ相手に対してお辞儀をするかどうかの仕草で決まり、とする説がある。
 当り、だと思う。
 

もし、日本という国がなかったら

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