寸感/待ち時間、春の名曲、さて

◇ 待ち時間の活用?法
 どうしようもない暇人の発想----- 例えば、薬局やクリニック等の待合い室にいるとする。名前を呼ばれるまでは時間を持て余すのが普通だから、そこに置いてある新聞や週刊誌を手に取ったりする。
 読みかけて佳境にさしかかったところで名前を呼ばれると、それらを置いたままにして用をすませ、また待合い室に戻る。
 ここからが問題。
 置いたままの読みさしの新聞などが気になり、また腰をおろして読んだりするのだが、これが一寸した罪悪感?を伴う。何故だろう。  
 客へのサービスのために置いてあるものを読んだりするのが、例え来室目的が片付いたからといって、そんなに悪いことなのか。仮に待合室に客が少なかったとしても。読むのが週刊誌であったりすると読み終わるまでに時間がかかるものは一寸気がひけるものだが。
 時間潰しに、自分で書物などを持ち込むこともあるのだが、サービス用の新聞などが目に入ると、自分の本を読む時間が勿体なくて? つい手を出してしまうのである。
 どなたか正しい身の処し方を教えて下さいませんか。
 ----- 暇人は困ったものです。


◇ 春を呼ぶ名曲たち
 春近くなると、梅や桜の開花や花前線の北上がニュースを賑わせることとなる。東北の人も待ち遠しいことだろう。
 日本の唱歌などには、世界に誇るべき、桜にちなんだ名曲が多い。「春よこい、早くこい」「春が来た春が来た」「春のうららの隅田川」「さくら さくら」「春の小川はさらさら流る」ほか「早春賦」など、希望と暖かみをはらんだその曲想には思わず心が和む。
 来日する外国の音楽家や演奏団体でも気の利いたところとなると、アンコールなどにこれらの名曲を取入れて我々を喜ばせてくれる。以前来日したウイーン少年合唱団は、綺麗なボーイソプラノで「さくら さくら」を歌い上げ、聴衆の共感を呼んだ。
 海外公演する日本の音楽家も、日本の音楽のオーケストラ版を披露してそれが受けたりもするが、もっと庶民に親しまれやすい上記のような名曲を紹介して、感性豊かな日本人のイメージ向上に貢献して欲しいものだ。


 クラシック音楽の分野になると「春」をその題名に冠した名曲も少なくない------ 「スプリング ソナタ」(ベートーヴェン)、「春」(ヴィヴァルデイ)、「春」(シューマン)など。ほか「田園」(ベートーヴェン)やメンデルスゾーンの無言歌なども、直接「春」とは謳っていないが、春の息吹きを伝えてくれているものがある。
 室内楽の分野では、モーツアルト弦楽四重奏曲に「春」と題したものがあり、私のお気に入りだ。
 モーツアルトが直接に命名したものかどうかは分らないが、明るい曲想から齎される印象は春に近い。
 個人的な感想となるが、聞くのと演奏するのとは大違いで、明るく簡素な構成と曲の運びだが、素人の演奏でまず巧くいくことはない。
 この曲は、モーツアルトが巨匠ハイドンに私淑して、珍しく作曲に苦吟した成果だとされており、「ハイドンセット」と銘打たれて発表された一群の作品のなかの第一作となっている。いわばモーツアルトの自信作の一つで、作品の随所に新しい技法や創意を盛り込んだと見られる跡がある。勿論私のような素人に判別出来るわけもないが、大抵は演奏に苦労させられるところから、ハイドンとは違った新趣向と見てとれることとなる。
 なかには、どういう演奏効果を期待しているのか分らないような楽句もあり、これはモーツアルトが従来にない実験を試みた箇所ではないか、と思わせられるところであろう。


 新実験であろうとなかろうと演奏に難渋させられるのはいつものことで、合奏が終わると大抵は少なからず落込んでしまうのが常である。そして次の瞬間には、落込むこと自体がみずからの夜郎自大ぶりを示すものだと気付いて反省したり、次回を期して----- また落込むことになるのかな、と余計な気を回したりすることになる。


 春は、いろいろと考えさせられる季節でもあるのだ。


◇ 「さて!」の効用
 前の書き込みでコミュニケーションのことについてどうでもいいような雑感をしるしてみた。
 その一環として、アナウンサー諸氏が話題転換の折によく用いる「さて!」についての感想である。
 さて、「さて!」は誰が考案したのか、次の話題に抵抗感なく滑り込むための
実に便利な言葉である。
 だから、安易に使いすぎると、TPOを考えなアナの無神経さや事前準備の欠陥を露呈することになる。
 前に、深刻な話題への受け答えには「2秒」の間を置くことが大切とされている、と紹介したが、この「さて」の語調や次の話題の前に何秒の間を置くかは、かなり神経のいる仕事となる。
 仮に、東日本大震災の悲劇的な場面を紹介した後に、少しの間も置かずに「さて」と続けてしまったら、視聴者はその無神経な場面移行に白けてしまうことになる。あるいは、このアナは、話題の深刻さに何も感じていなくて、ただ場面進行に汲々としているだけなのだな、と見てしまうことになる。

 普通の対談番組でも、司会が「ゆっくりお話を伺うことにいたしましょう」と言いながら、実は手許のシナリオから目を上げる余裕もなく「なるほど」「さて」等を機械的に繰り返しているだけの姿はあまり見栄えのするものとは言えない。難しい職業だな、と同情するばかりである。
 この「なるほど」も難しい。
 職場で上司が部下から話を聞くような場合、相槌の一つ、あるいは、儀礼?上「なるほど」が用いられたりするが、部下の話が要領を得なかったり、既に上司がよく心得ている事柄であったような場合は、話の分る(立場を取らなくてはならない)上司としては、一応は「なるほど」と言って、話の腰を折らないように務めなくてはないらない状況になっている場合が問題だ。(まわりくどいですね)。
 部下とのコミュニケーションを大切にし、かつ話の分る寛大な上司としては、ここで一応は「なるほど」とは言うが、その言い方に工夫を凝らすことになる。
 すなわち「なるほど」とは言うが微妙に語尾を上げたりして、俺はお前の言うことなんか先刻ご承知なんだが、一応お前の面子もあろうから我慢して聞いてやろうじゃないか----- とするのである。「KY」の応用問題にほかならない。(部下が上司の詰らない話を聞かされる場合も同じ問題が起こりが、この時の「なるほど」は普通のイントネーションでなくてはならない、ところがKY問題)。
<権兵衛の一言>
 さて !  長くなりましたので、ここいらで失礼することといたします。
 長過ぎましたか?
 なるほど、そうでしたか----- と言ってはならないのでしょうね。

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