寸感/まじめ、トポグラフイ、季節語、金曜日夜

◇ 和田秀樹「まじめな人ほど老化する」(PHP文庫)は面白い。普通、不まじめで自堕落な生活を送っている人は、何となく短命ではないかと世間ではお思われているからだ。
 実際には憎まれっ子 世に憚る、とも言われるように、世に憚られながらも、強く生きているような感じもある。悪いことが出来るくらいのパワーがないと良いことも出来るわけがない、という物騒な意見を持つ人もいるくらいだ。


 その一方で、まじめな人はどうか。生活は謹直に、そして世間にも迷惑をかけないようにまじめに生きている人が早く老化してしまうとは何か不公平ではあるまいか。しかし、不公平でも何でも、まじめでいて老化してしまうのが本当ならば、何か対策を考えねばなるまい。何故なら、まじめであつことと人生を達観してしまうこととは別ものであるような気がするからだ。
 気になる方は、同書をご覧になって、少し不まじめでもいいから長生きするノウハウを考えられればよいと思う。(不まじめというのは、悪いことをするという意味ではない、念の為)。


 これはさておき、私が興味を持ったのは次のくだりである。
 ----- ある研究によると、80歳の人は20歳と比べ 、筋肉量の減少は30%、肺活量のそれは17%、脳重量は7%である。


 私の趣味の分野である楽器演奏のことで申すなら、これらの数値は、年功者に若い人のような激しい運動を控える分別が備わってくることを考慮すると、弦楽器/管楽器双方の演奏能力において、両者殆ど遜色がないと思われることになる(なると良いと思う)。
 更に良い傾向だと思われるのは、年寄りは若者と比べて、激しいリズムよりはハーモニー/メロデイにより傾く傾向にあると思われるから、静かで内容のある渋い音楽が好まれるようになるのではないかということである。
 演奏面では、どうしても(息が切れて (^_^))激しい演奏が出来ず(やむをえず?)静かな演奏に向かうから、音楽の神髄に触れる「ピアニッシモ」の演奏が期せずして実現することとなる。


 和田氏の研究は、ここまでは及んでいるわけではないが、自分流には、このように自分に都合のいい方向で考えてみるのも悪くない、と思っている。


◇ 光トポグラフイと脳活
 いまや国民病となった認知症アルツハイマーは、専門医でも判別が難しいところがあるという。判別を誤ると、薬や処置法が異なってくるから事は重大である。頭を磁気で刺激するという効果的な治療法があるというが、これはアメリカでの話で、日本ではまだ一般的ではないそうだ。
 判別法として有効なものに光とポグラフイという機器がある。これを用いて言葉を発すると、脳内の微妙な血流変化によって病状が判定出来るのだそうだ。


 この言葉によって血流が変化するという点がポイント。
一般論として、 頭をよく働かせれば(頭で言葉を鍛えれば血流が盛んになり)老化が防げるらしい、というのは当っているようなのである。
 テレビやケータイなどを受け身で使う(使われる)だけでなく、言葉を使う為には努めて文字を書くようにすればよいのではないか。それも、なるべくなら手書きのほうが良さそうである。考えながら書く、という意味ではワープロも許せる。
 私は弱視のせいもあってケータイは使っていないが、ケータイのメールでも内容のあるものらな期待出来る。
(ケータイの弱みは、画面が狭いために、文面の前後が一覧出来ないことだ。辞書でも、折角引くのだから、目的の言葉以外に、その周辺の言葉が何となく目に入る大型(紙)辞書のほうが良い、と言われているのはこのことだろう。
 この意味では、電子画面で読むよりも、大きな視野が一覧出来る紙の新聞や本が良いということになる。


◇ 季節の御挨拶
  お店から進物を贈る時に、熨斗に付ける文言を考えることがある。それが季節と連動しているものであると、時に実際の季節感との差異に迷いを覚えることがある。例えば、
◯ 残暑。これは8月初旬(立秋)以後とされているが、最近の温暖化によるらしい猛暑のなかでは、立秋という季節語にふさわしい秋の爽やかな冷気といったものがまるで感じられない。だから現実には9月半ばに至っても「暑中」という感じのほうが適切ではないかと思える事が多い。
◯ 寒中。 これは2月初旬(立春)までのことを言うのらしいが、実際にはそれ以降も寒さで震え上がっていることが多い。ある店から進物を贈る時に、熨斗の文言を問われ「寒中お見舞い」にしたいと言ったら、今はもうその言葉は使えませんよ、と当方の無知を笑われた。
 しかし、現実に寒いのだかから、と無理を言って「寒中お見舞い」にして貰った。当方の無知よりも実際の寒さへのお見舞いのほうが大切だ、と思ったからだ。


 季節語に限らず、実際の状況と用語が微妙に乖離しているようなことはままあることだと思われるのだが、皆様はどのように対処されておられるのだろうか。
 一寸湿っぽい話となるが、お墓(仏式)の墓碑銘についての思い出がある。
 普通は戒名が用いられるところだか、事情(宗教、等)でそれがない場合は「俗名 ◯◯◯」が用いられることとなる。ところが俗名とは、未だ成仏していない人のことを言うのだそうで、故人に対して著しく礼を欠くことになってしまうのである。
 私は俗名というものを止めて、親から授かった由緒ある名前を用いて貰うことにした。


◇ 金曜日 夜の楽しみ
 毎週金曜日の夕刻、私は他出することにしている。読売の夕刊を買うためだ。お目当ては、連載のペットについての写真付きの記事。写真というと普通はペットだけのものが多いが、この記事では飼い主の主人とともに大写しで掲載される。犬と猫が半々ぐらいに扱われるのだが、飼い主は作家/文筆家のことが多く、達意の文章で、彼らのペットのことを愛情深く語ってくれる。


 この夕刊を買って気に入りの喫茶店に入り、ペットと主人が対等の関係にあることを強調するかのような楽しい記事を読むのが、毎週の私の小さな息抜きとなっているのである。
 作家の筆になるだけに、ペットがただ可愛い、可愛いというだけでなく、生活共同体、なかには運命共同体をも感じさせるような主人の愛情や思い入れが伝わってくる雰囲気がよい。
 私は犬派だが、猫も悪くないな、という気がしてくる。
<権兵衛の一言>
 光とポグラフイを利用する前に、犬 猫ちゃんたちによる「まじめ対策」の手助け(セラピイ)を考えることも一案であろう。



 





 







 



 
 




「まじめな人」ほど老化する (PHP文庫)

「まじめな人」ほど老化する (PHP文庫)