コミュニケーション あれこれ

 著名な映画監督 スピルバーグはインタビューで、(記憶が不確かだが)「作品は観客の想像力を喚起するものでなければならず、そこに映画史上に残る名作が生まれる原動力がある」といった趣旨のことを述べられていた。
 名作と言われるものは観客との適切なコミュニケーションの上に成立するものらしい。独断的な作品は受け入れられないし、観客の一時的な関心や猟奇的興味の乗った作品も長続きはしない。


 適切かどうかは分らないが、「適切なコミュニケーション」を欠くのではないか、と疑念を持った例をいくつか書いてみたい。
● 以前に、少し長めの文章を書いたことがあったが、それに写真を添えたほうがいいのではないか、と考えたところ、ある編集者から御注意があった。
 ------ 文章はその中身で勝負すべきもので、それに写真が添えられてあると、たとえ中身にふさわしいものであっても、読者の注意/関心は写真が齎すイメージに左右されることになり、文章の本意が伝わらなくなってしまう恐れがある。
 そう言われて身辺の文章を見てみると、特にネット上のものは殆どが写真で勝負を付けているかのような趣きがある。
 しかし、その写真付きの文章の本意を正しく把握出来ただろうか、と思い返してみると、なるほど、やはり写真のイメージに引き摺られて文章の中身についての印象が薄っくなっていることが否めないように思う。
 ネットで、これから文章を売り出そうとしている人に、先輩たちが「写真を付けることが勝敗の鍵だ」などとアドバイスしていることがあるが、長い目で見てこれで本当に勝負がつくのかどうか----- 文章というものははやはり中身で勝負を付けなければならないのではないか、という気持がしてならない。
 数ある文章のなかには、景気付け(?)のためか、中身とあまり関係のない写真を添付してるものもあるが、これは著者本人あるいは編集者の考えでそうしたものなのかどうか、本文を読みながら考えてしまうことがある。その時点において、その文章は一時的にせよ読者を失ったことになるのだ。(写真付きの報道記事とは、おのずから違う面があろうが)。
 出版書籍でも著者の写真が省略されていることがある。その理由の一つには、以上のような事情があるのかもしれない。著者が美人/イケメンであったが故に本文の印象が薄れてしまうようなことがあれば、これはなかなか難しい問題ということになる。


● 以前、あるところからエッセイの依頼を受けたことがある。私が以前に書いた文章を見て、その関連記事を書いて欲しいというものらしい。
 依頼者と会ってみたところ、「何か書いて欲しい」とのこと。
 ----- それは分っている。だからこうしてお会いしているのだ。
 「で、何を書けばいいのですか?」
 答えがない。再び「何を書けばいいのですか? 具体的に御希望をおっしゃって下さいませんか」
「- - - - - - - - - - - 」


 ここへきて流石に私にも事情が呑み込めてきた。
 この依頼者は、「何か書いて欲しい」と相手に伝えさえすれば、後は著者が自発的に、題材、題名、見出し、脚注、文章の内容等を考えてくれて、それが連載の場合は、連載期間に合わせて、一連の繋がりのあるものまで配慮してくれる------。


 編集者の仕事とは一体どういうものか、この分野の仕事に疎い私が、初めて抱いた疑問だった。この人はこれまでこのようなスタイルで仕事をしてきたのか、これは仕事と言えるものなのだろうか、編集者とは出来上がった原稿を運ぶメッセンジャボーイに過ぎないのか(失礼)、依頼を受けた者は、ただ有難く拝命して、自発的に原稿を拵えるのがこの業界でのしきたりなのか、----- 私はこの時に、ひとつ賢くなれたような気がしたものだ。
 コミュニケーションということから言えば、これほど間の悪いコミュニケーションのありようを想像するころも出来ない。


 結局、私は根負けして、依頼を了承し、おまけに半年分くらいの連載ものの企画まで自分で考える始末となってしまった。
 そして、その企画書を彼に送ると、ただ一言「素晴しいです」
 何が素晴しいものか、自分では何も考えていないのはみえみえなのに。
 こういうコミュニケーションの在り方では、恐らく敗者復活戦もありえない。完璧に当方の一方負けである。
 いい教訓になった。


 ここで、ある高名な評論家のケースを思い出した。氏は、電話で「何か書いて下さい」と電話依頼を受けると(意地悪く?)まず「ハイハイ」と受けてあとは無言でいる。一方の依頼側は、後は評論家のほうで何とかしてくれる、と思い込んでいるから、やはり無言で返事を待っている。
 こんな滑稽な時間が過ぎてから、やがて評論家の反撃が始まるのだが、評論家は、こんな無礼(無邪気)な依頼は即座に断ってもいいのだが、そこは武士の情け---- 原稿依頼の本来の在り方(コミュニケーションの在り方)をこんこんと諭すことになる。
 こういうやりとりは読み物としても面白いが、自分のここととして考えてみると、やはりヒヤリとしたものを感じてしまうことになる。心すべきことだ。


● 名インタビューアーとして有名な阿川佐和子氏について聞いた話がある。
 氏は著名人とのインタビューをうまくクリアするに当って、いろいろと苦労されたことであろうが、その一つに、深刻な事件や悲しみに遭遇した人に対しての対話(コミュニケーション)で、どう受け答えるか、という問題がある。
 相手の話に対して相槌を打つ場合は「2秒」の間を置いて、というのが大切なのだそうだ。
 「1秒」では性急過ぎて誠意を欠く、まるで想定問答集のおさらいのようだ。「3秒」では間延びし過ぎてやはり誠意を欠く。対応にこと欠いて何か適当に誤摩化したような印象になる。そこで「2秒」。
 もしテレビインタビユーで、放送時間切れに追われて、ぞんざいなやりとりになる、というのならば、大切な「2秒」を生み出すために、最初から放送の流れそのものを工夫すべきなのだ。


● 病気等で肉親や友人を失った人たちの気持を汲んで、各地に患者家族/遺族の話を聞いてあげる組織が存在する。
 例えば、遺族の悲しみにも色々あって、直後はただ悲しい、悲しいと嘆くのをひたすら聞いてあげるころが一種の癒しになるとされているのだが、やがてそ時期が過ぎると立ち直りの時間がきて、やがては人を慰める立場に回る人もいる。
 コミュニケーションの立場から見れば、極めて難しい場面の連続である。「2秒」を考える以上の細心の配慮が、関係者に求められることとなる。
 こうした会合の趣意書を見てこれはどうか、と思われるものがないではない。
 大抵は月に一回ぐらいの話し合いの会や散策の集いなどが企画されていて、それはそれで有意義なことだ。
 しかし、話し合いの会の持ち方について、最初からよく考えられてある、というのではなくて、次のようなことを特色とすることを謳っている会合もある。
 それは、悲しみを癒す段階を事例研究をしたのか、詳しく分析して、最初の悲しみに暮れている段階から、立ち直ったレベルまでを一覧表に纏め、人をあるレベルの段階に位置付けて、そこでの話し合いを企画する、という試みであるように見える。
 私は部外者だから、あれこれ言える立場にないが、まるで心理学実験室のように見えてしまうようなものは(関係者の熱意は重々察せられるものの)家族/遺族たちの意向に添えるものなのかどうか、一寸立ち止まってしまうような気持を感じてしまうことがある。(間違っていたら謝らなくてはならないが)。


<権兵衛の一言>
 人の気持、というコミュニケーションでは一番大切かつ微妙な問題について、素人があまり口出しすることは遠慮すべきことではありましょう。
 少なくとも、そいいう畏れの気持は持っていなくてはならないもののように思われます。
 いまや国民的課題となっている癌治療に当っての告知問題、鬱病認知症対策等において、一人の例外もなく我々に求められているのではないでしょうか。
 関係の本はいろいろありますが、一冊だけ紹介させて頂きます。

こころの処方箋 (新潮文庫)

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