とても叶わない人

 仕事の能力にも直接間接に繋がることだろうが、人間的にみても とても叶わないなあ、と思われる人がいる。そういう人は、仕事をすれば、きっと他の誰もが及ばない力を発揮出来る、と周囲に確信させるだけのオーラを持っている。
 具体的に言えば(私限りの規準に過ぎないが)、次の二つに集約出来よう。
(1)本をよく読む人
(2)自分の命の「有限」を大悟している人


 以下、(頼りない)説明。
(1)本をよく読む人
 誰でも本は読むが、それが人並みはずれて半端ではない人がいる。歴史に名を残すほどの人は、まず例外なく多読の人、あるいは、そういうDNAが刷り込まれている人だと思うが、私の乏しい見聞の範囲内で申してみると、例えば、元外務官僚の佐藤優氏。
 多読家と自他ともに認められる人と対談するくらいだから、そのレベルが察せられる。氏は「読書をする人は、しない人と比べて人生が4〜5倍豊かになる」ことを信条としているそうだ。私は就職前で世間の右も左も分らなかった頃、松本清張が描く様々な職業の現場(で起る犯罪模様)を、一種の人生案内だと思っていた。その職業は政界、経済界は勿論のこと、大学経営者、画家、音楽家、考古学者等々にまで及んでいる。驚くべき取材欲----- というよりも知識欲である。
 最近、佐藤氏は読書案内の本まで出ている。この「野蛮人の図書室」の目次を見ると、取り上げられた分野は実に多くて、
◇ 人生を豊かにするもの
 ----- 意味のある読書、信頼関係、女の本質、学歴の問題点、詐欺、数学、蕎麦、愛、ビールと民族、草食系男子、不倫、映画、マンガ、文学賞松本清張司馬遼太郎
 等をはじめとして、
◇ 日本を理解する
◇ 世界情勢を理解する
◇ 頭脳を鍛える
 などなどの他方面に亘っており、ひところ伝えられてたように、日本のラスプーチンと言われて何かの容疑で逮捕された人とはとても信じられないような面影がある。
 外務官僚としての経歴も異色で、なんと同志社大学大学院神学研究科終了という学歴の持ち主。これで外交官が勤まるかと思うのは素人ばかりで、氏は派遣先の東欧の要人たちと宗教の話題などを通じて交誼を得たとのこと。外交官といえば、難しい試験を通って語学ぺらぺら というだけのことでは勤まらない、ということを教えてくれている。
 「野蛮人のテーブルマナー」を読むと、実際の外交官活動----- 情報収集の仕事の一端が伝えられており、危険と隣り合わせの部分もあるということも分る。例えば、スパイではないか、と疑われると秘かに自室に侵入されたりもするらしい。「らしい」ではなくて、警告の意味で実際に侵入の足跡をわざと残すこともあるとか。
 読書に繋がる話題としては、仕事人として記憶力に優れていることの大切さをも説いている。
 例えば、夏目漱石「こころ」を全部暗記するくらいの努力は情報収集に関しても必要だとされているのだ。氏が記憶力の大切さを力説されるのは、例えば、外交官としてレセプションなどで貴重な情報を小耳に挟み、しかもメモするような状況でない場合には、唯一 記憶を頼りとする以外にない、という切実な経験があるからだろう。しかも、どんな小さな情報でも、国家の命運を左右しかねない要素を持っているかもしれないのだから、万が一にも記憶に誤りがあってはならない。
 記憶術に関する説によれば、記憶というものは記憶直後に最も忘れ易いものだそうで、記憶の復習はほぼ 1 時間後(以内に)行うのが重要、とされているそうだ。
 忘れっぽい人は少なくないらしいが、いま起ったことをすぐ忘れたり、忘れたことまで忘れてしまった経験のある人は少なくないのではなかろうか。
 我々も何かの会合でいい情報を耳にしたら、すぐその場でメモをするなどの下手な小細工をせず、すぐに別室に立ってメモに残すぐらいのことはしなくてはならないだろう。


 官僚といえば、外務官僚ばかりでなく、多読=実力とされる官僚たちの話題は多い。ある人物は、新聞やテレビには一切目もくれず、ひたすら専門書を読むのだという。(情報という意味では、週刊誌やツイッター/FBも「専門書」に入るのかもしれないが)。


 書評を専門とする人は、その必要上、多読は当然であり、書評を纏めた本は参考になる筈。「筈」というのは、実際に本を読まないで書評だけに頼るのには限界があるということだろう。音楽評をいくら読んでも、実際に音楽を聞かないでいては音楽通にはなれない道理である。
 書評の利点は、自分には分らない読書のキーポイントを鋭く指摘して貰える点にあるが、ただ感心しているだけで、次の本を読んだ時には何も感じない、というのでは、書評を読んだことにはならない。


 テレビでの身近な存在では、例えば、漫才や時事ネタ等で売り出している爆笑問題太田光氏。盛衰の激しいこの業界にあって既に20数年の実績があり、いまも「売れ続けている」にはそれなりの理由があって、氏の読書量とその範囲は芸人の範囲を大きく超えているようだ。
 氏はパソコンで新聞5紙を読み、書籍は書店に行くよりもやはりパソコンで検索して纏め買いをしているようだ。更に、同一作家の著作や本に触発された分野の本を連鎖的に求めるとしているから、所謂「乱読」ではない。
 氏の文章には亀井勝一郎、藤村、村上春樹ドラッカー太宰治向田邦子宮沢賢治、ヘレン ケラー、ニーチェゴッホピカソ、、チャップリンアインシュタインコンラッドなどの名前が見える。名前を挙げるだけなら誰にでも出来るが、もし突っ込まれた場合には何か気の利いたことを答えるだけの才覚と裏付けが必要だろう。
 太田氏は向田邦子全集の解説を担当し、以前は向田に関するテレビ教養講座を持っていたほどだから、その力は半端ではあるまい。
 向田の文章を評して「引き算がある」と言っていた。つまり、無駄な語句がなく完成された文章であると。向田の文章とある国民的有名作家のそれを比較して後者を「文章が青い」と言っていた。迂闊に発せられる言葉ではない。
 テレビでその道の専門家、与野党政治家、大学生たちとサシで討論出来るだけの力はどうやって獲得出来たのだろう。やはり多読が大きな支えとなっているに違いない。
 氏はその職業柄、読書などからネタを探すのは当然のことだが、それらから単に「発想」を求めるだけでなく「物語」としての展開を考えるのだそうだ。ここいらが普通の芸人と違っているのかどうかはよく分らないが、この意味では、漫才の域を超えてコント作りを目指す事になるのらしい。確かに一世を風靡したコント55号の舞台は今思えば漫才とは違っていた(今頃気がついたのだが)。


 その他の分野で気がつくのは、インターネットで、出色の書評サイトに出会えることである。
 あるサイトを見ていると、殆ど毎日、様々な分野の本が取り上げられ、しかも、ただ書名が挙げられているだけでなく、各册について数十行の解説が付けられているのである。その殆ど全部が私が本屋で絶えて出会った事もない本であることに驚き、自分の無力さを嘆くことになる。
 もう一つ、読書人の努力で印象に残るのは、毎日毎週夥しく発刊される新書類のすべてに目を通す、という人がいることである。新書というのは世情万般の事柄を平易に扱っているものだから、様々な面についての知識情報が身に付くことになるのだろう。しかし、私には真似の出来ないことだ。


 私も文字情報については関心があるので、さきほどの官僚のように新聞/テレビを一切排除して----- というわけにはいかないが、しかし、ケータイ、ツイッターフェイスブックYouTube, テレビの娯楽面等は遠慮して(単に不器用なだけ)、それでも新聞と週刊誌だけは一紙(誌)だけ目を通すようにしている(つもりである)。
 時代遅れと言われても、それで良し。しかし、時代の先端を行く、と言われることにどういう意味があるのか、そのための努力や時間に報いられることがあるのかどうか、は一向に分らぬ。
 ただ無闇に遅れを取らないように、偉い人が書いたエッセイや時事解説本等はなるべく読みたいと思っている。


(2)自分の命の「有限」を大悟している人


 まず頭に浮かぶのは、惜しまれつつ死去したアップルのジョブス氏。
 氏の言葉;
 ----- 自分が間もなく死ぬのを自覚しておくことは、人生での重大な決断を助けてくれる重要な道具だ。なぜなら他人からの期待やあらゆる種類のプライド、恥や失敗に対する恐れなどは死を前にすれば消えてしまい、真に重要なことだけが残るからだ。


 この言葉は、氏の偉大な業績と重なり合っている。
 ジョブス氏は大きな病を抱えての自分を見つめてこの発言となっているわけだが、我々にとっても無縁の言葉ではない。神様は実に公平で、誰にとっても生は一つの例外もなく有限であるからだ。ただ、それを自覚しているかどうかの、僅かな(しかも、実に大きな)違いに過ぎない。


 しかし、評論家/内田樹氏は「人生後半戦」についてのエッセイでそれを自覚したとしても、時既に遅しとしている。(若さの幸せは、その自覚なしで青春を過せることだ)。氏は「健康な人」の定義を「健康について考えたことがない人」としているが、若い人には恐らくジョブス氏のような自覚を求めることは無理なことであろう。我々は、先々の年金の計算ばかりしている若者と、お友達になりたいと思うだろうか。
 では、既に後手に回った人は、どのように考えればよいのか。氏は、しかし、その期に及んでは、まともに考えなくても済むように生きることである、と言っている。つまり、大悟せよ(諦めて無駄な抵抗はやめよ)ということか。


 話が少し逸れてきたようだ。話は「大悟」した人には叶わないということであった筈だが、いまのところでは、立ち遅れてやむをえず「大悟」した人はどうしようもない、というニュアンスになってしまっている。
 しかし、これが多くの現実の姿だとすれば、我々はそこから出発する以外にない。次善の「小悟」を悟る、ということになるのであろうか。それでも、健康について何の注意や予防もせず、ある日突然寝たきりになるよりはましなのかもしれない。
 末期のジョブス氏と同様の境遇に置かれた頼藤和寛氏の言葉;
 ---- どんな些細なことにでも深い意味は宿っており、世界が大騒ぎすることでも距離を置いて眺めれば大したことではない、と分る。
 これは内田氏が言われた「まともに考えなくても済むように生きること」に通じるのだろうか。
 だが「まともに考えなくても済むように生きる人」には、とても叶いそうにないことは確かなようだ。


 私が好きな戦没学生の詩があるので紹介させて頂こう。


<雪の夜>          田辺利宏
遠い残雪のやうな希みよ、光ってあれ。
たとへそれが何の光であらうとも?虚無の人をみちびく力とはなるであらう。
同じ地点に異なる星を仰ぐ者の
寂蓼とそして精神の自由のみ
俺が人間であったことを思ひ出させてくれるのだ。


 さきほど、若者はジョブス氏の心境を理解するのは無理かもしれない、というようなことを述べたが、先の戦時中には二十歳前後の若さで、こういう詩が書けた若者がいたのである。
 私がとりわけ感じ入っているのは、この詩の後半である。


「同じ地点に異なる星を仰ぐ」、「寂蓼と精神の自由」、「人間」----- こうした言葉を戦火のなかで生み出せる人こそ「大悟」した人にふさわしい。
<権兵衛の一言>
 大悟した人に出会うのは難しい。「大悟しています」と顔に書いてある人はいない。
 戦没学生がいまに生きていたら、何を思うのだろうか。
 心ならずも?「大悟」に追いやられた自分の運命を嘆くこともあるのだろうか。