「感動」のいろいろ


 この秋、人の命に関する感動テレビドラマの数々を視る機会を得た。
◇ 「風のガーデン
 病苦で天国に召されることを、ただ「可哀想」「よく生きる証」「残る者への戒め」と視るのではなく、「人の最後の戦い」としてじっと見守るべし、ということをコンセプトとしたもの。ドラマものでは、初めて出逢ったコンセプト。
◇ 「長生き競走!」
 高齢者が、人生を「残りの差し引き計算」として視るのではなく、プラス思考で生き抜こうとする奮闘記。
 戦いに参入した若い娘が、思いがけず早逝するエピソードも含まれる。そして、
「フルスイング」(再放送)
 実話に基づくもの。ベテレン野球コーチが高校教師に転じ、野球部員の育成に尽力。ただ、病気に侵されても家族、同僚たちの必死の療養勧告を受け入れず、部員たちの卒業を待ってから入院、しかし、手遅れで逝去する。その豪放な人柄と生徒指導にかけた情熱で人々を感動させる、という物語。


 その感動巨編ということで評価され、再放送という運びとなったのらしい。
 視ていて確かに感動する。
 しかし、感動にもいろいろあるということを、あるいは、違った見方をする人もいるということを、忘れてしまっては困ると思う。
 例えば、酷な(当然の)言い方になるが、発病が分かった時点で直ちにすべての仕事やしがらみを捨てて治療を受け、回復してから存分に指導に励む、という考え方に何故なれなかったのか。
 犯罪、金銭トラブル、汚職など、取り返しがきくことだが、死去だけは絶対に回復不可能なことなのだ。死に急いでは必ず家族、同僚たちの苦しみ、後悔を招く。それが分かっているようで分からず、分かった時は既に手遅れなのである。こんな悲しいことがあるだろうか。
 ドラマでも、校長が「卒業式は毎年来る」と言って、教師に治療を勧めるが、教師は「大丈夫です」と(全く根拠のないことを)豪快に言い放って助言を断る。


 なんと愚かなことか(失礼、しかし、言わなくてはならない)。「豪快」などがなにになろうか。
 ドラマ制作担当としては「感動巨編」を志すのは当然かもしれないが、感動にも立場のよっていろいろあることに少しでも考え及べば、こうした話をひたすらに「美談」に仕立てて人の視点を狭いものにしてしまうことの恐ろしさに心することになるのではなかろうか。


<権兵衛の一言>
 テレビドラマの企画現場の空気を、少しでも知りたいものだ。「空気読め」という戒めは、ここでも通用するのではあるまいか。
 しかし、あまり読み過ぎて、世の中から感動巨編が少なくなっても困る----- という矛盾した思いにも、我ながら困っているのだが。

こころの処方箋 (新潮文庫)

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