一歩前進? 英語教育

 
 新しい「高校新学習指導要領」(案)で、特筆すべきは、教師が英語の授業を英語で行うこととなる、という点だろう。
 考えてみれば、英語教師が教室で英語を話ないというのは妙な話だが、これまであまり不思議には思われず、そういう教育が踏襲されてきた(のであろう)。


 この問題を取り上げるなら、教師たちが学んできた学校での教育から問題にしなくてはならないが、多くの人が学んだであろう大学の英文科などでは、あまり英語による授業は行われず、(恐らくは)日本語で英文学の授業などが主流であったのではないか、と想像される(間違っていたらご免なさい)。
 現在は英会話を自在に操れる教師も少なくないことと思われるのだが、以前は「英語圏の旅行者で、一番英語が出来ないで恥をかいているのは英語教師だ」と囁かれていたものだ(間違っていたらご免なさい)。
 それから、多くの中学校などに外国人の英語教育補助教員が配属されたが、あまり役に立たなかったと噂された理由は、本来の英語教師たちが、彼等と一緒に生徒の前に立つことを「遠慮」したからだ、とも言われる(間違っていたらご免なさい)。


 教師たちは怠慢だったのか。そうでもないと私には思われる。経験してみれば分かるのだが、英語は簡単に話せるものではない。
 英語の読み書き堪能の教師でも、訳読/文法中心の授業でこと足りていれば、そして日常的に外国人と会話で切り結ぶ修羅場に晒されていなければ、会話に上達する機会が遠のく(遠ざける?)のは自然の成り行きなのだ。誰が責められようか。
 教員の間に「戸惑いがある」と報じられているが、これは当然(自然?)のことだ。
 しかし、「これまで訳読方式でやってきたので、不安だ」と言っている人もいるようだが、こういうことをハッキリ言われたのでは、当方も挨拶に困る。「怠慢ではなかったのか」という声が出ても仕方なかろう。


 しかし、この際あれこれ言うのはやめて、ともかく「新学習指導要領」を歓迎することにしよう。
 「戸惑い」があるのは当然、教育現場に混乱が出るのも当然、暫くは足踏み状態が続くのも当然、受験対策はどうなるのだ、という父兄たちのクレームも当然。
 長い目で見れば、教師たちの「苦あれば楽あり」の自己学習が進み(研修などはアテに出来ない=他力本願に過ぎない)、学力向上をマジメにアテにすることも可能となるかもしれない。
 語学が出来なければ覿面に赤恥をかくことになるが、こうした試練を経て得られた語学力こそが本物だ。
 そうして会話面での修練が進めば、内容のある英会話が実行出来るためには、訳読も文法も疎かに出来ないということが嫌でも自覚され、それは自然に生徒たちに伝わって好影響が齎される筈である。
 受験英語のありようも変わってくるだろう。


 ノーベル賞の益川教授は、授賞式で「私は英語は話せない」と大見得を切って、満場の暖かい笑いを誘った。
 教授にはノーベル賞に値する研究実績があるので、英語なんてちっとも怖くないのだ(実際の語学力は相当以上であろう)。
 しかし、ノーベル賞には縁がない我々は、少し頑張って英語をものにしよう。ノーベル賞ほどの苦労はしないですむと思われるから。
 その苦労も惜しんで「怠慢だ」と言われるのは、これは自己責任。
 高校の先生方、よろしくお願い申し上げます。


<権兵衛の一言>
 英語学習については多くの良書がある。
 下記のものは好例の一つ。

英語教育はなぜ間違うのか (ちくま新書)

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