人生は短いのか?

 
 読書家が薦める必読書案内(文春 08.12号)に従って「人生の短さについて」(セネカ)を求めてみた。推薦は片山慶大教授(元国家公務員、元知事)。
 これは題名が示す通りの「人生の短さ」(儚さ)について教えを垂れるというものではなく、短いといえば短いのだが、その人生の貴重な時間を、詰まらぬことで空費しないようにしよう、という警告の書なのである。中高年者を励ます趣旨の本である。
 セネカの時代は、平均年齢は現在の半分くらいしかなかったのではなかろうか。もちろん、定年後の退屈凌ぎ(自分探し)問題、後期高齢者問題、それに認知症問題などはその片鱗すらなかった時代なのかもしれない(いや、あったのかな?)。

 
 そこで問題となるのは、時間を空費するものとは何か、という答えがあるような、ないような問題である。
 答えは、無い、だろう。
 あるいは自己責任、つまり、無いのだから自分で探しなさい、ということだ。
 これでは、問題の性質や所在が分かっただけで、あとは知らんよ、と放り出されたようなもので、凡人は途方に暮れるだけである。
 悩んでいるだけで終ってしまうのでは、人生は短かすぎる。そうではありませんか、セネカ殿?


 しかし、詰まらぬことで時間を空費してはならぬ、というのは正論なので、更に答えを読書案内のなかに求めてみることとした。
 斎藤美奈子「趣味は読書」(ちくま文庫)。
 こうなったら読書は単なる趣味ではなく、人生最大の問題でもある。


 斎藤氏によれば、ベストセラーには、いつまでも覚えている本と、ブームが去ると同時にそんな本が出ていたことさえ忘れてしまう本とがある、のだそうだ。
 こういう本に引っかからぬようにせねばならぬ。ベストセラー本というのが危険な罠だが。
 斎藤氏が例にひいた本のなかの記述は以下の通り。
 ----- ありふれたことしか言わない人がいる。若い人にもこの種の人はいるが、圧倒的に、中高年に多い。
 何を言っても、これまで、誰もが百回も耳にしてきたようなことを、改めて言う。


 斎藤氏は、この本の記述自体が、本の過不足のない紹介になっているではないか、と決めつけている。
 こんな本は、まさに時間の空費だから敬して遠ざけ、心して読まないようにしよう。
 しかし、ここで問題。
 こういう本の値打ちは、読んでしまうまでは分からぬことがある、ということだ。
 途中で気がついて放り出すということが難しい。
 こうなると、自分は何のために本を読もうとしているのかを、まず問題としなくてはならない。
 時間さえ潰せればいい、という(悪魔の)囁きが聞こえてくるようなら、何も考えずに読書人としての(空疎な)誇りに殉じたほうがいいのかもしれない。こういう場合の人生は、退屈が出来るほどに長い。


 斎藤氏の本に面白い指摘があった。ベストセラーになるような本は、シエークスピアって誰だっけ? と平気で問うような人を対象に書かれたものが多い、というのである。
 これは著者のレベルが低いというのではなく、着眼点が優れている、と評価すべきなのかもしれない。
 そういう本の読者は、必ずしも人生は短いという切迫感を持っているわけでもない------ かもしれないし、切迫感に追われているのかもしれない。暇人とは限らない。
 編集者の「空気読め感覚」が問われる問題なのかもしれない。


(*)折よくNHKドラマ 「篤姫」最終回を視ることが出来た。篤姫49歳の(短か過ぎる)生涯のなかで、周囲を通り過ぎていった人物像の多彩なこと、幕末から明治にかけての驚天動地の大事件の数々----- これらは普通の人の人生の数倍の長さに値する。
 人生は短いのか長いのか、それは年数ではなく、その内容次第だ、という当り前の結論に達する。
 篤姫の心の盟友 小松帯刀は、篤姫と暫しの別れの時、これは別離ではなく、次に再会するまで、すこし離ればなれになっているだけのことに過ぎない、と言った。味わい深い言葉である。
 唐突だが、ここで私の亡妻の詩の一部を綴らせて頂くことをお許し願いたい。

<時計>
(中略)
 別れたら忘れずに
  お互いのゼンマイを捲こう
  そしたら早くあえるかもしれない
  もっと幸福な所で


<権兵衛の一言>
 私は、貴重な自分の時間を費やして、ここまでの詰まらぬ文章を書き、自分の短い人生を更に短くしてしまった。
 しかし、このことを悔いて、更に時間を空費することはやめておこう。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)