秋深し(8)寅さん、与謝野大臣

◇◇ 寅さんの正論
 このところ、よく視るDVDは「男はつらいよ 葛飾立志篇」である(前にも触れた)。これは数ある寅さんシリーズのなかでも秀作と言っていいのではないじかと思っている(すべてを視たわけではないが)。
 寅さんは、縁のあった女性の墓参りで和尚さん(大滝秀治がいい味を出している)に出会い、「己を知る」ことの大切さを教わる----- ここから騒動が始まるのだが、己を知り、自分の立ち位置や生きる意味を確認し、そこから次ぎの処方箋を導き出すのは、誰にとっても難しいことに違いない。
 何事にも失敗の多い寅さんだが、偉いが世事に疎い大学教授(失礼)に男女の愛情論を講釈するところが素晴しい。何が素晴しいかというと、それを詰らない学問としてではなく、人間自然の本性に合致したものとして語るからで、教授も寅さんに一目置くこととなる。
 この点が、従来の寅さんものが儚い失恋騒動に終始しがちであったのと違って、人の心に残る秀作となっている所以であろうか。寅さんシリーズも一作ごとに成長しているのだ。
 そのほか、寅さんシリーズの持ち味である、素朴な、夕日に霞む山野、田園風景、お正月の風物詩(女性の晴れ着、富士山、初荷の看板等)など、何回繰り返しで視ても優れて印象に残る。
(*)外国人は、富士山を仰いでも何の感懐も催さないという話があるが、そうなると寅さん映画を日本理解の為の教材として外国人に視てもらうことはどういうことなのか、考えてしまう。外国人は山頂から眼下を見下ろすことには些かの感銘を持つことがあるそうだが。


 山本直純作曲の主題歌は近来出色の名曲だが、同じように心を打つ名曲にウーゴとクリステイナのインカ民謡、李成愛(韓国歌手)の韓国歌謡曲(日本の演歌以上に演歌風だ)がある。
 ヴァイオリンの松田理奈の名演については先に触れたが、音程/音色が優れ、かつ「歌(真情)」に溢れている点では、いすれも優劣を付け難い。
 秋深しの感興を更に深くしてくれる逸品揃いである。


 男女の情を描いた作品としては、先に触れた永井荷風「?東綺譚」の佳筆に感じるところがある。現今のケータイ小説では到底及び得ない境地ではあるまいか。
 くだんの大学教授に教材として読んで貰ってどうか。一人前の男が遊興の街に出遊するとは何事か、と(勘違いして)怒りだすと困るのだが。

 
◇◇ 与謝野大臣の静(正)論
 就任後まだ数ヶ月というのに、麻生首相を巡っての論議が騒がしい。空気や漢字が読めないとか、政策論がブレるとか、与野党内やマスコミで喧しい論議があり、支持率も落ちた。
 ところが、麻生内閣の一員である与謝野大臣の言には訥々とした慈味を帯びながら、そうした狂騒ぶりを冷徹に観察/分析している目があり、何故か安心して聞いていられるのは、氏の飾らぬ人徳というものであろうか。人徳というよりも、大病を得て死線を越えてきた人間の凄みというのか。


 氏によれば漢字の読み違いなどは、さしたる問題でなく(騒ぐほうがどうかしている)、首相としての大局感が肝要であると。
 漢字が少しくらい読めなくても、海外大学に留学し、浮沈の激しい政界で生き残り、国連で演説し、アメリカ大統領と英語で電話会談し、予算委員会での論議を乗り切ることは可能であろう。首相の器を軽々にワイドショーなみの規準で云々してはいけない、ということか。
 問題は政策のブレである。
 この点で、最近の例では、基礎年金の政府負担割合の引き上げ時期が問題となり、野党から激しく論難されているが、与謝野氏によると国民の負担分に影響があるわけではなく、年度内に手当てすればよいだけで、さほど騒ぎ立てるほどの問題ではないとのこと。


 このところの金融不安や経済危機についても、騒ぐだけが能ではなく、事態を冷静に観察し、論理的な対処法こそが大切である、と説かれてみると、危機だ危機だ、と慌てふためくのが、なにか観察眼や論理能力を欠いた人間の所業のように思われてきて、ここは一つ大臣に頼ってみようか、という気になってくる。
 社会保障費が毎年2000億円ほど圧縮され、これが最近の医療、介護、福祉政策不振の元兇になっていることが常々腹立たしさの種になっていたが、氏の説明によると、毎年1兆円の社会保障費の膨張があり、これを何とか8000億円に押さえ込んでいるのが実態だという。
 私の不勉強で、こういう解説は初めて聞いたことだが、こうなると、2000億円に怒ってばかりはいられない。しかし、8000億円は大変なことで、何とかしなくてはならない----- という考えに傾いてくる。
 ここで解決策が見えるわけではないが、解決に至る道筋だけは何とか分かり、そして与野党の対案のいずれが妥当なのかを考えてみる余裕が生じる。
 麻生首相は、政権の命取りにもなりかねない消費税アプに敢えて何故言及したのか。首相の蔭に与謝野氏の存在が感じられる一瞬である。


 ほかにも首相発言には問題とされることはいろいろある。首相が発言し、謝罪させられた医師の常識欠如問題はどうか。医療の現場である病院で、そして患者の声を聞いてみる必要はないのだろうか。何故医療関連訴訟が続発しているのか。
 政策のブレに怒る前に、前後の事情を考察すべきことがあるような気がしてならない。
 そして支持率とは、一体何を意味しているのか。どういう実態を反映しているのか。


 与謝野大臣につては、次期首相という声もある。もっとも、併せて聞こえてくる声は、民主党主導での加藤紘一首相の可能性だが、私にはその時の政治状況を予測してみることが出来ない。そうなる前にてんやわんやの政界再編の大騒動が巻き起こることとなるかもしれない。
 市民のなかには、かっての美濃部都政の失敗を連想させられるという人もいる。
 新しい風が吹くのはいいが、どうか静かで安心安全な市民生活を脅かさないで貰いたいものだ。
 政権/政策の選択を誤ると、少なくとも10年の世情不安は覚悟しておかねばなるまい。
 もし与謝野首相が実現したとしても、途端に各方面から野次り倒され、短命政権に終るかもしれない。
 そうなったら、私は最早日本という国に見切りを付けたほうがいいのではないか、と怖れている。


 もう一つ、政策の一つとして「定額給付金」が取り沙汰されている。これにつては、野党、マスコミ、言論界等で、ほぼ一致して無用論が優勢である。
 国民のなかでもアンケートでは「無益」とする意見が多いようだ。
 しかし、しかし、である。国民の本音は「貰いたい」というのが実情であるという声もあるではないか。
 どちらが本当なのか。建前と本音がこれほど(滑稽なまでに)掛け違っている例は珍しいのではなかろうか。
 建前で「要らない、バラまきだ、経済効果はない」とされるのが分かっていて、なお意見を問うことのなんという愚かしさ-----を嘆く友人がいる。呆れるというよりも嘆くというところが切なくも悲しい。


<権兵衛の一言>
 ワイドショーで、調子よく給付金を批判すると、視聴者からは、お前たちは庶民の気持ちが分かるのか、という抗議が殺到するのだそうだ。最近のスポンサー急減では、民放も庶民を敵に回すのは苦しかろう。
 時代の先端を行く民放も、いまや空気を読まねばならない事態と相なっている。首相を笑い者にして楽しんでいる場合ではないのかもしれない。

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