告知「せず」?


 11/15(土)夜、医療問題を扱うTVドラマ「告知せず」が放映された。
 妻が手当てのしようもない末期の病気であることを知った医師が、(医師でありながら)そのことを妻に知らようとしないで、周囲の医師からも責められ、一人悩む。
● 問題。告知は医師の当然の義務、ということが前提とされているような構成であったが、果たして「当然」なのか? 誰がそれを強制出来るのか?
● 問題。しかし、告知しないですむものなのかどうか。
 主人公の医師は、この二つの問題の狭間で悩む。


 世論の大勢は告知是認の方向で進んでいるようだ。一つは、患者/家族の納得ずくでの早期医療開始のために。
 一つは、患者が(尊厳ある)人として生きる方途をみずから発見するために。
 更に問題。
 医師は、告知してからというものは、患者と共に闘病
(精神的にも)するという姿勢が求められる筈なのに、これが実際に行われているのかどうか。
 私が見聞きした事例では、医師は告知を手軽に事務的にすませ、そのことでみずからの悩みを免れているかの如き姿勢を示していた。(医師も人間であるから、これが例外的事例であることを祈る)。
 一方の患者は、告知を前向きに受けとめられず、混乱状態に陥っていまうことがある。殊に、望みも予期もしないうちから、事務的に告げられてしまった時だ。


 このドラマでは、周囲の医師から「告知は当然だ」として責められることが山場の一つとなっていたが、問題はそう簡単なものではあるまい。
 そして、最大の問題は、主人公の医師がとうとう告知をしなかった理由が最後に示されるのであるが、それは、明るく明朗な妻を告知で傷付けたくなかった------ として、このドラマを締めくくっていたことである。


 これでよいのだろうか?
 主人公はこれで救われた気分でいられるのかもしれないが、亡くなった妻の心の問題はどうなるか。
 結論はいろいろとあろうが、ひとつの見方は、これは主人公のエゴではないか、ということ。(妻の尊厳はどうなったのか)。
 もう一つ感じることは、このドラマは告知という結論が見えない悩みを主題としているのならそれでいいのかもしれないが、このドラマを製作した社会的意義はどこにあるのか、という疑問に突き当たる。
 悩みだけを描いてそれですまそうということでは、現に病魔と戦っている患者/家族には何の救いにもならないのではなかろうか。


 尊厳死ということが話題になることがある。
 現に尊厳死協会という組織があって、これに入会すると証書が貰えるとされる。その内容は無益な延命治療は
遠慮し、但し安らかな(苦痛のない)人としての余命を保証してもらうというものだ。
 ところが、法律的な裏付けがないために問題なしとしない。例えば、
 本人の家族が延命治療を強要し、医師も治療怠慢を責められるのが怖さに、本人の意向に反して医療を続行し、無益な苦痛を与えてしまう、というものだ。
 告知同様に出口の見え難い問題だと言えようか。


 このドラマは心の悩みだけではなく、唯一、医療問題に触れていると思われた部分があった。
 それは、入院加療中の老人が、見込みのない病人は三ヶ月で病院を出て行けというのか、と医療スタッフに
毒づくところである。
 スタッフは(蔭で)「仕方がないなあ」とこれを認めているところが恐ろしくも悲しい。病院を追い払われる老人はどうなるのか、この深刻な問題はこのドラマでは描かれていなかった。
 「仕方ない」ですませられる問題であろうか。
 この問題は医療スタッフが「仕方ない」と嘆かざるをえないほどに大きく、国の医療制度全般にかかわってくる問題である。
 例えていえば、問題の根本が国の財源不足である限り、増税という一語にすぐ反発する国民に、しっぺ返しのように降り掛ってくる問題なのだ。
<権兵衛の一言>
 偉そうにものが言える立場ではないか、同類のドラマの宣伝文句に「絶賛の感動巨編」「国民必見の問題作」「大反響」などとあると、お願いだから止めて貰えないかな、と言いたくなる。

白い巨塔〈第1巻〉 (新潮文庫)

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