秋深し(5)不安定

◇◇ 視聴覚教材(8)「不安定からの発想」
● ある晩、何気なくNHKテレビを視ていたら、読書に関する真面目?な番組にお目にかかった。
 「私の一冊日本の100册」。有名人が注目に値する作品を取り上げ、司会者群がその有名人を囲んで、あれこれと話題に花を咲かせるという趣向。
 私が注目させられたのは、俳優かつ愛書人として著名な児玉清氏が「不安定からの発想」(佐貫亦男)を取り上げたこと。
 児玉氏が大の読書家であることは承知していたが、俳優業や知的読書家としての安定した評価を受けている氏の口から「不安定」という言葉が飛び出すとは予想だにしていなかった。


 氏の読書歴については、不勉強ながら「寝ても覚めても本の虫」で、海外のミステリーに強い、という程度の浅い理解しか持っていなかったので、「不安定〜」という言葉の背景には航空機工学面での学識が根拠となっているらしいという(意外な)事実に驚かされてしまった、というのが偽らざる本音ということになる。
 番組で氏が解説されたところによると(もし、私の受け取り方に誤りがなければ)、氏は人生での処世術においては、不安定が常であるなかでは、唯一、人間が操縦桿を操作することのみで、その不安定が克服出来るのだ、と説かれていたような感銘を受けた。技術論よりは味のある人生訓としての印象が強かった。


 実は、この「不安定〜」という本については思い出深いものがある。
 私は高校生時代から、難しいとされていたヴァイオリンの自己流の学習に夢中になっていたのだが、ヴァイオリンという楽器は、自己流でも、あるいは教師/教則本による学習でも、極めて克服困難な楽器なのである。
 それは、一重に、安定が困難な肩の上に乗せて楽器を保持し、その上で困難とされる運弓/運指を成功させねばならないというところからくる。
 ただヴァイオリンが好きだという無謀ともいうべき情熱と、学習方法についての冷静な分析/追求が必要であるという難しい事情を、教師にも頼らず、自己責任で解決しなければならない分野であるからである。(教師につくとしても、教師はあくまで脇役であり、進歩は自分で確保しなければならない)。


 私なりのヴァイオリン学習における「不安定〜」が、どういう効用を持ったかというと、それはおおよそ次のような素人考えによる。
 ------ 飛行機操縦を初めて可能にしたのは、不安定な飛行機を安定ならしめる方途のなかにある------ というのではなく、不安定を前提として、そこに人為による操作を持ち込む、というアイデアによるのである。
 私は拙著「アマチュアの領分ーヴァイオリン修得術」(春秋社)のなかでしるしたことは、この飛行機操縦の原理をヴァイオリン奏法に当てはめたらどうなるかということであった。
 つまり、安定のなかに、敢えて不安定を取り込むことのなかにおいて、初めて演奏(運弓/運指)が可能となるのではないか、ということである。
 ヴァイオリン演奏の要諦は、この点に尽きる。(と私は思っているのであるが、疑念を抱く方は、一度ヴァイオリンという楽器を肩に乗せて弓を使ってみられるとよい)。


 児玉氏が説かれる人生処世法における「不安定」の効用の高みには及ばないが、楽器学習面でも「不安定」要素の活用は有効ではあるまいか、という私の推測が、多少は立証出来るのではないか、と心強いものを覚えた次第であった。
(*)追記
 番組司会者群のなかに、一人若い魅力的な女性が居られた。中川翔子さん。取り上げられる様々な本について述べられる感想や批評が半端なものではなく、相当に本を読み込んだ上での発言であるようにお見受けした。本業は歌手らしいのだが、見上げたものだと感服させられた次第。
 

<権兵衛の一言>
 私のヴァイオリン演奏が「不安定〜」理論?によって、飛躍的に進歩したかというと、それば(当然に)否である。不安定のまま、というのが実態。
 なぜなら、進歩というのは「理屈」だけで成就されるものではなく、馬鹿になって基礎訓練に日夜励むことが出来るか、という別次元の能力によるところが大きいからである。