秋深し(3)永井


◇◇ 視聴覚教材(6)ブログ/永井荷風
 インターネットの楽しみは、資料検索それに各様のブログが拝見出来ることである。
 ブログといっても、ただ写真を並べて説明してあるものは刺激をそそるところがなくて、そういうものがブログランキングの上位だと言われても、あまり興味がわかない。
 ブログでよく拝見しているのは、
 学者の内田樹氏のもの------- 題材に日常的なものを取り上げていても、そこに啓発させられる多面的な考察が加えられていることが多く、ブログのお手本格としての存在感がある。
 もっとも、書かれたものを集大成すると、すぐ本になってしまうほどの質と量を備えているから、素人がおいそれと真似出来るものではないのが残念であるが。
 同じくブログのお手本ともなりうべきものは、糸井重里氏の「ほぼ毎日イトイ新聞」。本当にほぼ毎日、短文を更新されていて、まずそのエネルギーに敬服。毎日更新といっても内容が問題なのだが、これは内田スタイルとは異なって、コピーライターとしての本領を発揮したような、社会生活のある側面を独自の視点で切り取ったものが多い。
 何かふわふわした文体で書かれているようだが、内側にある「視点」が文章となって溢れ出てきたようなものなので、これまた素人には真似し難いものがある。


 音楽家のブログでは、音楽会評のようなものはありきたりで詰らないが、あるプロオーケストラ奏者のものは、奏法についてもユニークなものがあり、最近では外国人奏者は鈍感ではないか------ というような外人コンプレックスが吹っ切れたような論調のものが目を惹いた。勇気ある御発言と言ってもよい。
 音楽関連は文字にするのが難しいためか、心で感じたものをうまく文字に乗せて人に伝えられる能力が感じられる文章に巡り合えると、よく印象が残る。難しい作文では辟易させられるが。


 前に触れた松田理奈さんにも写真入りのブログサイトがある。最近のものは留学先の街の風景や食物を扱ったものがあり、これはこれで面白い。
 しかし、もっと面白くて刺激的------ と言っては申し訳ないが、偶然行き会った匿名サイトでは、松田さんの才能を羨んだ音楽人たちが、精一杯の批評(実は悪口)を並べ立て、松田さんあるいはそのサポーターと覚しき人(詳細不明)が反論を加えている------ そういうブログサイトでは、人の音楽的見識や才能(人間の幅までも)が隠さず本音で露出していて、(皮肉ではなく)参考になることが多い。


 ブログというのは本来は「日記」風の文章のことらしいが、日記ということで最近手にしているのは永井荷風断腸亭日乗」。37歳から死去する80歳までの独居生活の毎日を日記にしるしたものである。
 戦時中の記録など胸に迫るものがあるが、晩年に至っての生活実態には興を催すものがある。といっても文筆に生き、文化勲章を貰うほどの人であるから、常人の生活とは自ずから異なったものがある。
 日記にしるされた交遊録には出版社関係と思われる人が多く、庶民のそれは出てこない。八百屋での買い物とか銭湯も出てこない。
 戦時中の日用品の値段が記録されたりはしているが、普通の生活での生活臭を感じさせるものは少ない。
 文人であるから原稿を書くのは当然だが、ほかによく映画、芝居などを見たり、本(フランス語原書?)を読むなど、どこか雰囲気が違う。かと思うと、実に頻繁に「浅草」に行くという文字が踊っている。
 興味を持ったのは食事だが、カタカナ名のレストランがよく出てくる。それが晩年になると和食のものとなる。テレビでの荷風特集では、晩年に通った大黒屋という和食堂が紹介されていた。豪華な赤坂の料亭風でなく、普通に見かける食堂のように見えて、少し安心?出来たような気分となった。
 そして、そういうところへ続けて通うところが面白い。私もレストランや喫茶店には行くが、続けて通うということは、何やら気恥ずかしくて出来ないところがあった(理由は何となく分からぬ)。それが荷風の日記を読んでからは、そういう抵抗感がなくなった(というのも、おかしな話だが)。


 詰らないところばかりが印象に残っているようだが、この荷風の「浅草」行きが、どこか心底で傑作「?東綺譚」と繋がっているのらしい。
 この小説には東京/玉ノ井地区の風情や街の佇まいなどが色濃く描かれているとされる。
 物語は主人公(荷風?)がふと行き会った女性と、暫しの間付合い、(作為的にか)住所も名前も知ろうとしないままに別れ去るというもの。
 この女性と真っ暗な二階の窓に依て語りあっていた時、突然閃き落ちる稲妻に照らされたその横顔。それは今も猶ありありと目に残って消去らずにいる。
 ------ こういう描写は荷風独自の境地なのであろうが、お雪というこの女性の姿態、人柄までもくまなく現しているような趣きがある。
 著者は文末で、この小説に更に小説らしい結構を添えるとするならば、くだんの女性と街で偶然に再会するなどの方途を講じることも考えられるが、敢えてそうはしなかったというような趣旨を書き添えている。
 結果として、更に余情がいや増すところがあり、この小説を忘れ難いものとしている。傑作とされる所以であろうか。
 私など到底及びえない境地である(当り前だ)。


<権兵衛の一言>
 私のブログは、結局は、人様の後追いをしているだけのものだ。しかし、これもインターネットのご利益というものであろうか。

〓東綺譚 (1951年) (新潮文庫〈第290〉)

〓東綺譚 (1951年) (新潮文庫〈第290〉)