秋深し(2)


◇◇ 視聴覚教材(5)ヴァイオリン低弦の魅力
 ヴァイオリンの魅力についての話は尽きない。
 金沢工業大学の堀 幸夫先生の論文によれば、ヴァイオリンの最も低い弦(G線)から、演奏法次第によっては、ヴィオラ/チェロの領域に及ぶ低音が出せるのだそうである。
 先生の御専門は「機械材料」、「トライポロジー」だそうで、論文題名は「バイオリンとトライポロジー」、副題として「楽器研究への誘い」とある。
 私は文系人間だから、まず「機械材料」、「トライポロジー」というものからして分からないが、、演奏法次第で、通常よりも低い低音が出せる、という御主張には何となく親しみを感じる。
(「親しみ」というのは、御説の難しい説明が感覚的にしか受けとめられないからである)。


 論文は、まず「楽器構造」から説き起こされ、「弓毛」、「ヘルムホルツ運動」へと進み、本項の主題である「低音の不思議」に至る。
 これを実演で検証されたのはヴァイオリニストの木村まり 氏で、演奏には弓毛による相当な圧力と弓と駒の間の適切な間隔が必要だそうである。
 「相当な」とか「適切な」というところが微妙であるが、この説はニューヨーク タイムズにも紹介され、多くの米国人の関心を呼んだとされている。


 私は下手ながら弦楽器(ヴァイオリンとチェロ)では、数十年、低音、高音それに想定外の雑音を出し続けてきたので、所与の弦の音以外の妙音が出るかもしれない、という説は、一概には否定出来ない。これは、いい音で弾きたいという切ない願望とどこかで重なっているのかもしれない。
 しかし、はっきりしていることは「相当な」、「適切な」という言葉で推察される通り、この至芸は名人にのみ許された芸域ではあるまいか、ということである。
 さて、ここで思い出されるのは、先に触れた松田理奈の「カルメン幻想曲」。この名演では充分(それ以上)に低弦の魅力が、より低い音の魅力を伴って溢れていたように思う。------ 但し、低弦がより低弦らしく響くのは、曲が完璧に、かつ魅力的に弾かれた場合だけであるが。
 この意味では、(失礼ながら)海外コンクールで優勝したような名人の演奏では「完璧」ではあるが、必ずしも「魅力的」ではないので、低弦が低弦らしく(より低く)響くことはなかったように思われるのである。


◇◇ 視聴覚教材(6)アマチュア音楽の在り方
 クラシック音楽について一石を投じた「のだめカンタービレ」も一段落ついたようで?、アマチュア音楽人の受けとめ方についても、今後とも要注目といった状況なのであろうか。
 以前からアマチュア音楽勢の伸張が著しいと思っていたら、それは概ね次ぎのような効果を齎して、しかも、やや通俗化してしまったかのような印象がある。つまり、当たり前のようになってしまって、問題が潜在化してしまった(?)という訳だ。
 ● 大人の音楽学習に(やや)市民権が与えられるようになった。 
 ● アマチュア オーケストラ活動が一般化した後、更に進んでアマチュア主導のオペラ公演が珍しいことではなくなった。


 しかし、アマチュア オーケストラ活動が一般化したといっても、その内容は千差万別。自主興行型、他力本願型、一発オケ型(ある特定音楽演奏を目的とした臨時編成のオケ)、などなど。
 運営の内容は更に細かくなるが、そこにある古典的な問題というのはほぼ定型化していて、------ つまり、
マチュア オーケストラというのは、一部の音楽愛好家を中心に結束した「親睦」志向のものか、それともセミプロ級の高レベルを狙った「技巧」志向のものか、というものなのである。なかには、この二つの属性を同時に抱え込んだ厄介なオーケストラもある。


 このほど、アマチュア音楽を考えるうえで刺激的/啓発的とも考えられる本が出された。
「オケ老人」(荒木 源、小学館)。
 単なる音楽好き者の文章ではなく、確かな体験に裏打ちされた奥の深い小説である、とお見受けした。
 合奏好きな連中の合奏団が、やがて「親睦」型(古稀年代)と「技巧」型(若手、技巧派)に分裂し、いろいろと曲折があった後、充実強化された「親睦」オーケストラの勝利に終るという物語。
 音楽に勝敗の問題はない筈だが、ここでの勝利とは、技巧よりも真に音楽を愛するものたちの合奏が、人の心を打つのだ、というような意味になる。音楽の本質に添ったものだ。
 物語の都合もあるのだと思うが、フィナーレは交響曲「新世界」演奏の成功という形で締めくくられる。
 音楽評論家やプロの間では、この「新世界」を通俗的であるとして、やや軽く見る傾向があるようだが、本当は相当な難曲。これで大成功というフィナーレは、その困難を経験した私には一寸眩しい思いがあった。
 しかし、そうした個人的な感想(悔恨?)は別として、音楽(文字通り、音楽を楽しむこと)とは何か、という本来的な問題を考えさせるには最もふさわしい作品に仕上がっている、と言うことが出来る。
 更に言えば、音楽を楽しむという点では、老人も若者もない。技巧すら必要ではない。


 感想を付け加えてみれば、
● 単なる技巧以上に人間的的な事情にまで配慮する立場のアマチュアオーケストラの魅力を理解するには、聴衆側にも、演奏者の人生を聞き取る耳が必要だ、とされている。


 私が体験したアマチュア オーケストラの問題には、例えば次のようなものがあった。
● 志を同じくする人たちが結束すれば、団のなかで反主流派、無関心派が生まれることがある。
● 後援団体が生まれるほどに成長出来ればいいのだが、それはそれで団の主体性を損うという新たな問題を生む。
● 大曲、難曲への挑戦は必要だが、魅力的(多くは抒情的な)小品やハーモニーの魅力を軽視する傾向を生む。(早くで活発な楽章を好み、ハーモニーを軽視すれば、それは音程不安の元兇となる。私は、これをアレグロ症候群患者と呼んでいる)。
 あるいは、「上手な人=偉い」という誤解を生む。
● 団運営に当たっては、外交的で派手な人物が好まれ、将来を黙考するタイプの人が軽んじられることがある。


<権兵衛の一言>
 低弦に関する掘先生の文章は、音楽という側面から見ると、学術論文というよりも味のある音楽エッセイといってもいいのかもしれない。
 「オケ老人」を含めて、今回の「秋深し」は、音楽エッセイということで纏めさせて頂いた。

オケ老人!

オケ老人!