寸感/小泉氏の音楽力、消費税前面に、男の約束

◇◇ 「音楽遍歴」(小泉純一郎 著)の本気度。
 本気度とは妙な言葉かもしれないが、クラシック音楽への愛好度を示すお話には、どこまでが著者の本当の言葉か分らない場合が多いので、つい、このような失礼な物言いをしてしまった。一国の首相であった方には申し訳ないことだったが、本書を読む限り、音楽(クラシック、ポピュラー、邦楽等を含む)への愛着の度合いは本物だと思われた。


 かねがね、小泉元首相の音楽好きは有名であったが、マスコミ報道では、どことなく「偉い人のアクセサリー」といった感じが伴っていたのは否めないことだった。
 特に揶揄まじりに報じられたのは、ブッシュ大統領一家の面前で、プレスリーの曲か何かを身振りおかしく披露したのが報じられた時で、全体に小泉氏への評価を下げかねない調子のものがあった。しかし、それは失礼ながら、マスコミ記者団の音楽理解がその程度のものであった(あるいは、どう扱っていいのか計りかねた)のかを天下に知らしめた、という受け止め方があったのも事実である。


 本書を読んで初めて分ったことだが、小泉氏の音楽理解は、クラシック、ポピュラー、邦楽を含めて広範囲なものであるらしい、ということである。
 氏の音楽遍歴は、まずヴァイオリン音楽----- それもクラシックでは極め付きのメンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲に始まったということで、以後、ヴァイオリン協奏曲を聞き込むことに没頭したということだが、それも素人のヴァイオリン音楽好きの域を遥かに越えていて、プロでもあるいはなじみのないものではあるまいか、と思われる曲名が出てくるのだから油断がならない。


 著者の筆は、協奏曲から進んで交響曲、オペラ、ポピュラー、邦楽等の玄人はだしの域へと及んでいくのだが、特定の指揮者や演奏団体にこだわらないところが、また好感が持てる。妙に高尚ぶらないということだ。
 クラシックは、一度聞いてすぐに好きになれるものではなく、何度も聞いて身体に沁み込ませなくては、と言われているところも良い。
 なかでも感じ入ったのは、マイナーだと普通は思われているエルガーの全曲盤を集めたい、と言われていることや、オペレッタ(喜歌劇)はオペラよりも理解が難しい、とされている点だ。これはプロも意外とされるところかもしれない。


 著述の雰囲気は、あくまで普通庶民のそれで、音楽評論家のやけに難しい筆致とは趣きを異にする。これは本物だと思う。やたら脇道に逸れたり、無益な掘り下げをしないところが快い。
 これじゃ音楽的に本物の音楽遍歴になっていない、と思う方は、こういう調子でクラシック、オペラ、ポピュラー、邦楽等の多岐に渡る分野を分り易く述べられものかどうかを、みずから試してみられるとよい。


 私のことを引き合いに出すのは畏れ多いことだが、私の守備範囲は、明らかに小泉氏に劣る。
 私は下手な演奏面に時間を取られたこともあるのだが、テレビが普及してラジオでクラシックを楽しむ時間が減少したことが、レパートリー拡大に災いしたと思うことがある。もっとも、音楽鑑賞の方法は人様々だから、あまり比較しても意味のないことであるが。


◇◇ 消費税論議前面に。
 これまで各論ばかりで国家としての福祉像との整合性が見えなかったところに、やっと消費税(歳入増)が論議のテーブルに上がる形勢となった。
 テレビのコメンテーターの発言を聞いていると、相変わらず将来展望をそっちのけで、消費税の好き嫌いだけで論議を曖昧にしてしまうところが見受けられる。
 消費税は好きか嫌いか、その論議では「嫌い」に決まっているから、そんな論議をいまさら聞きたくはない。「嫌い」というなら、その先はどうなるのか、ということを含めて論議してくれなくては、我々庶民は救われないではないか。
 よく外国では老後の年金/医療は丸抱えで羨ましい、しかし、税負担は50%だ、などという話を聞くことがあるが、日本の今後はどうなるのか。
 いろいろな論議を聞いていると、どうも高福祉はいいが、高負担(税金)には話を及ぼしたくはない、といった態度が見え見えのように思われてならない。
 いつも情緒論で話が終わってしまうようだ。


 選挙のことは考えずに耳障りなことを言う、ということで男を上げた与謝野馨氏は、消費税10%を提唱しておられる。
 ある新聞では、氏を「異能の人」と紹介していたが、異能というよりは普通感覚の人、というのが正しいのではあるまいか。


◇◇ 男の約束。
 昨年秋、うちに不幸があり、諸事に追われて、やっと少し落ち着いてきたところである。
 諸事のなかには香典返しというのもあったわけだが、これへの対応も様々なものがある。
 香典返しで少しは喜んで貰えたかと思われたのは、物故者の写真に詩の自作作品を添えたことだった。高校の同窓会誌では、その詩を掲載してくれて、心温まる追悼文をいくつか頂戴することが出来た。


 私の数十年来の友人は、アマチュアオーケストラで共に役員という汚れ仕事を勤めたり、その後、弦楽四重奏をご一緒した仲間だったが、以前は中堅会社の社長を勤めたほどの人物。それが偉ぶることもなく、全く一人の音楽愛好家として、私の相手を勤めてくれた。こうでなければ音楽は続けられない。
 その彼が、年始の寒い頃に電話してきて、暖かくなったら弔問に行くから、と言ってくれた。彼の住所は私のところまで電車で数時間もかかるところだ。
 かれは脳梗塞を二度経験し、死地を潜ってきた人間だけに、その厚意を「気持だけ」お受けすることにしていた。
 ところが、それから数ヶ月経ったこの5月、かれはその言葉通りに訊ねてきてくれた。
 別れ際には黙って花屋に立ち寄って、立派な花束を誂えてくれた。百万言の追悼の言葉に勝る振る舞いだ。
 大袈裟だが、「男の約束」というやや古風な言葉を」思い出してしまった。


<権兵衛の一言>
 かれには、ささやかな香典返しとして、同じ花屋で小さい花束を求め、かれの奥様へのプレゼントとした。
 「母の日」がもう間近であった。奥様と母の日というのはそぐわないかもしれないが、不器用な面が多い男どもには、何か口実が必要なのだ。
 

音楽遍歴 (日経プレミアシリーズ 1)

音楽遍歴 (日経プレミアシリーズ 1)