「余命一ヶ月の花嫁」の読み方

 評判のテレビ作品「余命一ヶ月の花嫁」は、以前に拝見したが、書店で見かける同名書は読んでいない。というよりも、読む気力がないのは、私も肉親を半年前に癌で亡くしたからである。
 それに、いくら筆力を尽しても、人の喜び、哀しみを完全に表現することは不可能と思われるからでもある。幾分かの「美化」が入る(失礼)ことは許容出来るとしても。
 仮に、哀しみを筆に託すことは出来ても、それは当事者の癒しにはなっても、周囲の人、関係者に及ぼすことは期待出来ないのではないか。人は他者の死に耐えることが出来るほどに強いのだから。


 先般、妻を亡くされた作家/城山三郎氏の「そうか、もう君はいないのか」が出版されて話題になったが、城山氏ほどの名筆家にしても、その思いを綴ることには少しためらいが感じられた(当然かもしれない)。それよりも心が痛んだのは、版元関係者が(他意はないにしても)「大評判」「大増刷」と囃し立てたことである。
 人の死をこんなふうに扱うことは許されないのではないだろうか。
「余命一ヶ月の花嫁」の出版、テレビ作品化がそうでないことを祈るばかりである。


 「余命一ヶ月」という題名を見た時、まず、何という残酷な扱いをするのか、と感じた。人の死は静かに見守るべきものではないのか。家族、友人はそれでよかったのだろうか。
 しかし、御本人が取材を希望されたと知り、何か少し納得した。
 本人が納得づくのことであれば、例え苦痛が大きかろうと、余命一ヶ月の身体で挙式を行うことは、医者でも止められないのかもしれない。


 さて、「余命」とは何だろうか。私の肉親は死去半年くらい前に「生活の質」という言葉を初めて医師から聞かされ、そこで言外に「余命」を悟った(悟らされた)。つまり、延命治療で命を削るよりも、もっと楽しく(苦しまずに)余生を享受したらどうかということだった。(享受どころではないのだが、世間ではこれを尊厳死と呼ぶことがある)。
 「余命一ヶ月の花嫁」の場合には、どういう受け止め方があったのだろうか。難しいことではある。


 以前、テレビで見た番組に、40歳代の人の「余命10年」というのがあった。この「10年」は長いのだろうか、それとも短いのだろうか。
 充分に余生を享受出来るという考えることも出来ようし、完治を期待出来るかもしれない。
 また、赤ちゃんの「余命は80年」と聞けば、これをどう理解すべきだろうか。諸行無常と取るか、十二分と考えるか。
 こういう時、人の命は「長さ」で決まるのではなく「内容次第だ」と言われることがあるが、これで納得出来る人がどれくらいいるだろうか。
 人の死は筆では現せないというのは、こういうことだと思われる。
 よく著名人に対するアンケートで、余命が限られた場合、貴方は何をして過すか、というのがあるが、その答えは概ね空疎で迫力がない。私にも答えはないのだが。  
 やはり筆の力はそれ限りで、それでいいのかもしれない。そして本当の「余命」に迫られた時、人は混乱するだろうが、それでいいのかもしれない。


 結局、はっきりした答えはないのだが、せめてそういう事実(迷い)だけでも自覚しておけばいいのかもしれない。
 長くなったが、終りに、なくもがなの懸念------ この「余命一ヶ月の花嫁」の作品によって、人は何を得ることを期待しているのだろうか。主人公は何を訴えたかったのだろうか。
 読後、例えば3ヶ月して、自分の人生観は大きく変わった------ そう言える人がいるのだろうか。教えて欲しいものである。


 この問題とは直接関わりはないが「3ヶ月」といいうことでは、大きく衝撃を受けたことがある。
 重松清の小説「その日のまえに」に、こういうくだりがあった。
 亡くなった妻の遺書が丁度「3ヶ月目」に、夫のもとに届けられたのだが、その内容は、

「忘れてもいいよ」

 私の実感からすると、この「3ヶ月」には深い意味がありそうである。
「余命一ヶ月の花嫁」の若く美しい主人公は、どういう形で人々の記憶に残るのだろうか。


<権兵衛の一言>
 これは別に失礼な意味での問いかけではなく、意味のあることではないか、と考えております。
 去る者、日々に疎し------ というのとも少し違うようです。

余命1ヶ月の花嫁

余命1ヶ月の花嫁