記憶力と西郷隆盛


 昨日の夕食に何を食べたか? これが思い出せずに、認知賞の前兆か?と悩む人がいるかもしれない。
 ところが「記憶力」にはいろいろあって、それが分かってから悩んでも遅くはないのかもしれない----- というところが面白く、また記憶力の不思議なところである(らしい)。


 テレビで紹介されていたある人物は、見るもの聞くもののすべてを生涯にわたって記憶しており、人を驚かせたそうだが、そうした膨大な記憶から何らかの意味/教訓/新説を引き出せたかというと、これがさっぱりで、要するに人の利用を待つだけの人間図書館で終わったらしい。
 記憶には「意味記憶」というのがあって、たとえ記憶が少なくても(忘れっぽくても)、優れた人はそこから何らかの意味のあるものを引き出してきて、あるいは、いろいろな記憶を結びつけて意外な発見を齎し、人様に貢献出来るというものらしい。


 日記をつけることにも意味があることもあるし、無意味に終わることもある。
 例えば、毎日毎日、日用品の値段を克明に記録しておけば、長期的に見て社会/国の経済力の動向とか国民の消費性向の流れを察知することが出来るかもしれない。そして、出来ない人には何も出来ない。
 戦時中、ある国の情報当局は、敵国の軍港のある都市の日用品の価格の推移を調べ、急に値上がりすると、そこから敵艦隊や輸送船団の動きを予測することが出来たという。
 スパイものの映画では、情報部員が敵国の株価動向放送を傍受している、というのが御定まりのパターンの一つであった。


 意味記憶の話になるが、目的意識のない単なる瑣末な事象の記録からは、あまりたいした結果は生まれないということになるのだろうか。
 少し不謹慎な話になるが、糖尿病で大事な食事療法では、一日に何をどれくらい食べたかを克明に記録することが求められることがある。
 医療スタッフがこの作業を通じて、患者の食事指導に献身してくれる姿勢には頭が下がるが、例えば、バター(脂肪分)の一日の摂取量を測定するのに、食パンにどれくらいのバターをどれくらいの薄さ(厚さ)に塗ったかを報告させるのは、数十年と続く患者の食生活を考えた場合、長続きするかどうかという点で早くも挫折が予測されてしまう。
 測定は大切だが、もっと重要なのは、大体これ以上にバターを、そして他の脂肪分を摂取すると栄養バランスが崩れてしまう、というおよその分量と意味(弊害)を患者の頭に叩き込むことではなかろうか。それでこそ長続きする。(医療スタッフの方、ご免なさい)。


 意味記憶のことで連想させられるのは、楽器演奏のことである。(一定の演奏能力を前提としている)。
 演奏には楽譜が付きものだが、楽譜を早く読み取って音として表現する能力に、人によっては大差が現れるのである。
 ある人は、楽譜を見るそばから何の苦もなく、それを演奏していける。(楽譜のずっと先を読んでいることすら予感させる)。しかし、読譜力の弱い人は、クリアするのに非常に時間がかかる。場合によっては、ソリストとして舞台に上がれないことにもなる。
 しかし、天は二物を与えず。読譜の早い人の演奏は、まるでコピー機が楽譜を読み取っているいだけのようで、その演奏には心(意味)がないことが多い、と言われる。
 一方、読譜の遅い人は、楽譜の要所要所から訴えかける音楽の意味を読み取って、感銘を与える演奏をすることが出来る、と言われることがあるのだ。
 (勿論、両方出来る人もいれば出来ない人もいる)。


 記憶と、そのアウトプットの優れた例として上げらているのは西郷隆盛である。誰かから、彼の頭は小さく叩くと小さく響き、大きく叩くと大きく響く、とされた。
 こういう芸当は普通の人にはなかなか出来ないことかもしれない。


<権兵衛の一言>
 西郷は、いくら叩かれても応答しないことがあったかもしれない。
 その場合は、叩き方が愚問に類することだったのだろう。
 

新装版 翔ぶが如く (1) (文春文庫)

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