音楽閑話(12)/器楽と声楽

 私は 弦楽器をいたずらするので、オーケストラに参加することがあるが、合唱団と共演すると、そこに何か文化?の違いみたいなものを感じることがある。
 例えば;
● オーケストラは譜面なしでは一歩も前に進めない。そこで、合唱団の暗譜力は常に羨望の種。 暗譜の秘訣を誰彼なしに訊ねてみるのだが、まともに応えて貰ったことがない。「何故歩けるのか」と聞かれても答えられないようなものかもしれない。
● オケは各楽器/パート毎に一群となって演奏する。自分が失敗しても周囲に助けられるということがある。しかし、合唱団員は群衆場面などで、各声部の人たちが、バラバラに混じりあって歌うことが多い。よく混乱しないでいられるものだ。
● 本番前には、小さい加除変更が避け難いが、オケはそれには強い(譜面通りに弾く以外にない)。しかし、合唱団/バレーの人たちはどう対応しているのだろうか。特にバレーは身体の動きが変わることもあるだろうから、苦労するのではないかな。
● オケの集まりは、どこか事務的。合唱団は情緒的に見える。楽器がないのでスキンシップが取り易いのではないだろうか。
 本番終了後の打ち上げ会では、オケはあまり盛り上がらないが、合唱団は身体に楽器が付随しているせいか、大きく盛り上がる。羨ましい。
 オケは楽器が邪魔、しかし、いつも足下の楽器が人に蹴飛ばされるのではないか、と気になっている。楽器とのスキンシップが先になる。
● オケは技術に細かく、かつ、煩いので、とかく技術の奥にある音楽や人間の営みを見過ごすことがある。合唱団は音楽のなかに人間を見る。それを身体で体感出来るように見える。
● 人間には「呼吸」があり、楽器演奏は呼吸の生理に左右されるところが大きい。逆に言えば、大いに利用価値があるのだ。弦楽器は、常にオペラ/歌曲の呼吸に学べと言われる。しかし、これを意識して実践している人は少ないようだ。
● オケはオケピットから動くことが出来ない。またオペラ伴奏中、舞台を見ることが出来ないので、歌手に合わせることが難しく、欲求不満が残る。
● そのせいか、オケ部分は記憶出来ても、伴奏すべき「歌」を聞いても、いつも初耳のように聞こえることがある。つまり、オペラを全体として把握/記憶するこおが出来ないのかもしれない。舞台上の歌を聞きながら、オケ部分を演奏出来たら、さぞ楽しかろうと思う。
● バレーでは舞台の埃をもろに被らされる。
● オペラが終演すると、拍手を受け、スポットライトを浴びるのは、常に歌手である。
● オケは聴衆から見え難いピットに潜っているため、音がない時は、出前のラーメンが食べられるという噂がある(ウソ!)。


<権兵衛の一言>
 私事で恐縮だが、市民オペラ「アイーダ」で、生まれて初めてオペラ作りを直接体験出来、その練習記録の一部を拙著「生涯学習 ヴァイオリンの楽しみ」に摘記してみた。しかし、寡聞にして、同様記録(マニュアル)が後輩者に提供されているということを聞くことがない。
 私見では、市民オペラの働きには二つあって、一つは言うまでもなく、総合芸術であるオペラの楽しさを市民に提供すること。もう一つは(これが重要)、必ずしもクラシックになじんでいない人たちに、オペラ作り(群衆エキストラ、舞台設営、音響/照明、衣装作り、広報宣伝、出演者/関係者接遇、等)を通じて、クラシック音楽の支持層として加わって貰うことである。
 ひょっとしたら、貴方の隣家の娘さんが「カルメン」で、奔放な女工役を演じているかもしれないではないか。

ヴァイオリンの楽しみ

ヴァイオリンの楽しみ