音楽閑話(11)/ヴィブラート

 弦楽器においては、指板上の左手首/指を揺らせて、音に豊かな生命と表情を与えること。管楽器や邦楽器においても同じ。声楽についても同様のことが言えるだろう。
 声楽のヴィブラートがどのようにして与えられるのかは分からないが、人間の発声に自然に備わったものという感じすらある。音楽学校でこの技巧を後天的に教える科目があるのだろうか。
 弦楽器のヴィブラートは、「神様からの贈り物」とされているくらいに難しいもの、とされている。まず、初心者はいくら努力しても、これを体得することが出来ない。あれこれ試行錯誤してやっているうちに、フト出来るようになった、という人が多いようだ。従って人に教えることも難しい。

 
 ヴィブラートにもいろいろあって、指先でかけるもの、手首でかけるもの、そして腕でかけるもの、とおよそ三つの種類があって、これを曲j想に応じてかけなければならない、とされるが、こうなると、教師の指導(あるいは天与の才能)が必要になる。


 一方、ヴィブラートを作為的に「かけない」ことも重要な技法とされる。下手な者はこれが出来ない。譜面上に「ヴィブラートをかけるな(ノンヴィブラート)」と指定されてあっても、つい左手が動いてしまうのである。これが所謂「縮緬」のような無神経きわまる音であった場合、指揮者や周囲の奏者(そして聴衆)が蒙る迷惑は大きなものがある。


 声楽においてもノンヴィブラートが効果的に際立つ場面があるように思われる。特に宗教的な曲ではそれが求められる場合が多いのではないだろうか。ここで下手な土臭いヴィブラートが与えられてしまうと、すべてぶち壊しとなる。
 宗教曲に限らず、アカペラとされている曲にノンヴィブラートが効果的である場合が多いように思われる。
 私が気に入っているのは、日本の女性合唱(5人)の「アンサンブル・プラネタ」である。そう沢山耳にしているわけではないが、例えば「G線上のアリア」を聞くと、その清冽な響きに打たれ、日本の合唱の水準も世界レベルになったものだ、と感嘆させられる。
 「G線上のアリア」は、もともとバッハ作曲の弦楽曲だが、弦楽、声楽両方の面で優れた成果が発揮出来る、その天才的な作曲技術に感服させられるとともに、どうみても声楽のほうに軍配が上がるような事実に、何か悔しいような思いがあるのは否定出来ない。。
 「第9交響曲」でベートーヴェンが「おお友よ、この音ではない」として、第4楽章で管弦楽を避け、合唱の響きに傾倒していったように、弦と声の勝負では、どうやら(必ず)声楽が最後に人間の友となるような気がする。
(声楽がハーモニーの勝負であるのに対して、器楽はどうしても指が回る技術に傾く弊があるからだろう)。


 ヴィブラートには別の重大な問題もある。ヴィブラート過剰で、本来の正しい音程を歪めてしまうことがあるのだ。
 オペラなどで、主役が張り切り過ぎて全く音程が「ない」場合がある。当然にバックの合唱からもオーケストラからも遊離してしまう。これはヴィブラートの制御不全というよりも、そうした人を選んだしまったミスマッチと言うべきなのだろう。


<権兵衛の一言> 
 弦楽でも声楽でも、ヴィブラートがあるのかないのか分からないくらいに自然な状態で演奏される、素晴らしい音楽に恵まれた生活を送りたいものである。
 犬の耳は人間が想像する以上に鋭いのだ。

Largo (SACDハイブリッド盤)

Largo (SACDハイブリッド盤)