文武両道----- ピアニスト 青柳いずみこ氏

 前のブログでは、輝ける才能・岸本佐知子氏について感想を述べてみた。
 「気になる部分」に、こういうフレーズがあった。
 適記してみると;
<髪>に比べて<毛>は不遇である。「剃髪」には厳かな響きがあるが、「剃毛」はなんだか恥ずかしい。「亜麻色の髪の乙女」とは言っても、誰も「亜麻色の毛の乙女」とは言ってくれない。


 凄い感覚の冴えだ! 世の中には、才能のある人っているものなのだなあ。恐れ入りました。
 そして、もう一人の天が二物を与えた才人----- 文筆家にしてピアニストの青柳いづみこ氏。その文筆も御専門の「ドビュッシー」なら当然かもしれないが、祖父についての評伝「青柳瑞穂の生涯」で日本エッセイスト・クラブ賞を取ったとなると、単なるピアニストの筆の遊びとは見なせなくなる。祖父は骨董に明るく、文士 井伏鱒二とも親交のあった人だという。


 司馬遼太郎のエッセイに人物の品定めに関するものがある。司馬氏が新聞記者をしていた頃、新聞にある人を取り上げる場合、どういう人物なのかを見定める必要が生じるが、その時に所謂「日本的把握」なる手法があるのだそうだ。
 例えば、◯◯大学卒業、◯◯学会会員、◯◯県人。司馬氏の表現では、こうした把握は「いやらしい」とされていたようだ。(実態よりも外貌だけで判断するということか)。
 青柳氏については芸大大学院卒、フランスの音楽院卒、などの経歴はある。しかし、そういう把握法だけで見ると青柳氏の全体を見る事は出来ない。
 目に触れる文章、ピアノ演奏活動などから、こういう文武両道の達人はどういう人なのだろう------ と経歴を振り返ってみて初めて納得出来る、そうした才能なのだ。
 氏の文章は正直申して私には難し過ぎるが、やはり大学院レベルで鍛えられなければ、決してこうした文章の高みには到達出来ないだろう、と思わせられるものがある。


 青柳氏は一連のリサイタルを計画されているが、その内容を一部紹介してみよう。並の企画でないことが理解出来よう(読売/夕刊、08.3.15)。
ドビュッシー没後90年祈念>
第1回 ドビュッシーの脱西欧化が、新調性や新テンポの発見に至る過程を、ヴァイオリンとの共演を通じて紹介。
第2回 ソプラノ歌手と歌曲を紹介。
第3回 CDで発売予定の「練習曲集第1・2巻」を演奏。
第4回 染織家の作品を背景に「前奏曲集第1・2巻」を演奏。


<権兵衛の一言>
 ドビュッシーは文学の一手法である「意識の流れ」に触発され、音楽のポエジーを構造ではなく時間の流れによって表現しようとした、と青柳氏は指摘するのだそうだが、どういうことなのだろうか。
 ドビュッシー以前の音楽構造----- それまでの様式感によるだけでは、ドビュッシーのような天才は生まれてこなかった、ということなのか。