嫌いなものの効用----作家の場合

 人に薦められて、女流作家・岸本佐知子「気になる部分」を一読してみた。
 驚いた。一読するには勿体ないくらいの内容である。
 人として「気になる」部分についての掌編を纏めたあものだが、ここで「気になる」とは仮に「嫌いなもの」と言い換えてもよい。
 人の人物を紹介する場合、よく「好きなもの」が列挙されることがあるが、これでその人物像のすべてが明らかにされるとは限らない。むしろ「嫌いなもの」を擧げられたほうが、全体像がはっきりする場合があるのだ。
 しかし、人は「嫌いなもの」よりも「好きなもの」を並べてプロフイル紹介に替えようとする。足下を見透かされまいとする自己防御本能が働くせいであろうか。


 「気になる部分」には、作家の鋭敏な感覚というか感性というか気骨というか、それらが端的に反映されていてあますところがない。一つの才能である。
 世に女流作家は多いが、この人は上位に位する人らしい。(ちなみに、1位は須賀敦子向田邦子といった重量級)。
 次ぎの問題は、どうしたらこうした鋭い感性が養われるのであろうか、という凡人の切ない悩みから発した問いであろうか。天性のもの、と説明されただけででは、凡人は浮かばれない。
 作家紹介欄を見て、少し納得がいった。岸本氏は翻訳家なのである。翻訳家がなんで作家のランキング上位に? と思う人は、文筆業の厳しさを知らない幸せな人かもしれない。
 私も在職中、事情に迫られて来信する横文字文書を翻訳させられてことがあった。いい加減に訳して上司に提出すると、「こんな日本語が読めるか」と突っ返されることがある。この場合、上司が横文字の分からぬ人、と陰口を叩くのは間違っている。大事なことは、仕事に責任を持つ上司が決済してくれる文書が作成出来るかどうか、である。


 翻訳家は言語の鉄人だ。その人の文章を切ると、血が出てくる。
 女流作家の上位にはロシア語の大家/米原万理がいるらしい。この人の本も求めてあるが、何か怖くてまだ読んでいない。


<権兵衛の一言>
 それでも、翻訳家の文章は、どこかその人の「余技」のような感じがありはしないか。
 とんでもないことである。夏目漱石は英語、森鴎外はドイツ語で文学界に君臨した。
 音楽家で文筆業を両立させれいる人はそう多くないような印象を受けるのであるが、どうであろうか。
 作曲、ピアノの分野では大家の存在が目につくが、私の好きな弦楽器では少ないように見えるのは残念なことだ。

気になる部分 (白水uブックス)

気になる部分 (白水uブックス)