教材作って魂入れず?

 ピアノ学習の話になるが、ある編集者がピアノ教材の出版企画に際して、教材執筆者からピアノ演奏の手ほどきを受けたそうだ。
 曰く:
 ----- 個別学習事項を一般化することと、動作という主観的なな感覚を客観化することの手がかりを得た気がする。


 これで編集/出版は目出度く成就することだろうが、これだけでは出版の意図は半分も実現出来ていない。何故なら、学習者が、その教材をどう学習に活かせるか、であって、初心者が教材の編集意図を正しく汲み取って学習し、執筆者の目論み通りにピアニストとして大成出来るかは、全く別次元の話であるからだ。
 恐らく初心者では(当然のことかもしれないが)教材の万分の一も活かかのは難しいことだろう----- いくら執筆者が高名で教材内容が立派であっても。


 ここでは、一旦「一般化/客観化」した(蒸留水のような)教材を、初心者向きに解体し、個々の学習者のレベルに合わせて「主観化」する作業が必要とされなければならない。
 これは恐らく老練な教師でしか出来ない役割となることであろう。音大出身の若い新進気鋭の教師には、学習者の目線にまで降りてくることは、恐らく困難なことと思われる。


 私は在職中、職員研修担当部所で勤務したことがある。ある時、赴任してきたばかりの気鋭の課長が、即日、最も進んだ研修理論に基づく高度な内容を持った研修の実施を部下に命じた。しかし、部下は直ちには上司の命に従わなかったので、一種の緊張関係が生じてしまった。


 思うに、この際、課長がとるべき態度と思われたのは、研修
を受ける受講生の生態について長い経験を持つ部下の意見を少しでも聞いてみつべきであったのだ。
 普通程度の研修においてすら授業中に居眠りをする受講生が少なくないのに(これは受講生にのみ責任があるとは言えない)、そこにいきなり高度の研修をぶつけたら一体どうなるか。全員が居眠りに追いこまれるのではないか。
 この時、授業担当講師が教材を充分に理解咀嚼して受講生に対するのなたともかく、教師自体が理解に苦しむような研修内容で効果的に授業が行えるのであろうか。


 研修生は優れているから研修所に送られてきたとは限らないのである。むしろ、出来が悪いから受講させらあれていると考えても、必ずしも失礼には当たらないだろう。


<権兵衛の一言>
 ここでは楽器学習の例があげられているが、このことは、恐らく日本人の誰もが渇望する英会話上手の学習----- 教材への接し方にも通じることなのである。
 私も脱落者の一人であるから、自信を持って豪語することが出来る。
 権兵衛の言いたいことはただ一つ----- いい教師を選ぶこと。  
 有名な学校に、いい教師がいるとは限らない。先日話題となったNOVAの改善は、この点については如何相成ったのであろうか。