好漢 石田三成

 このところ、読むのは藤沢周平が多かったが、国会が荒れ、海難事故が続き、中東で問題が多発し、食品事故が起こったりすると、私には当事者責任がなくても、妙なもので司馬遼太郎が懐かしくなる。
 久しぶりで「関ヶ原」を再読してみた。文庫本とはいえ、上中下3巻それぞれ500頁あまりの大作である。
 内容は関ヶ原で東西20万に及ぶ大軍団を動かし、天下分けめ死闘を演じた家康と三成の戦い。


 まず、改めて驚かされたのは(当然だが)著者の類い稀な物語作家としての才能である。この長大な小説を通して読む時間的余裕がないので、5分とか10分でも暇が出来ると手に取ってみるわけだが、仮に前後の細部を忘れていたとしても、僅か数頁だけの文章から受ける筆力に引き込まれてしまう。


 一つには、文章の滑らかさ、語彙/比喩/知識の豊かさ、人物観察眼の深さ等もあるのだが、文章の裏にある背骨----- 歴史観の確かさといったものが、拾い読みの慌ただしさを救ってくれて、確かに読んでいる、という実感を支えてくれているからである。
 司馬氏の文章の魅力を一口に「博識」あるいは、「余談の巧みさ」と分析する見方があるが、これは少し違うと思う。
 博識だけなら誰でも図書館で汗をかけば収集は可能かもしれない。しかし、それが雑学に堕してしてしまわないためには、汗をかく前に「視点/視野」の確かさが確保されていることが必要不可欠の大前提となっていなければならない。また、インターネットでの資料集めがいくら容易であっても、それは大小説家を産むことには繋がらない。
 もう一つ大事なことは、そうやって集めた資料の山を分類整理し、読者の前に展開して見せる能力、興味を繋いで読み続けさせるの能力である。


 司馬氏について思い出すエピソードがある。氏はある人から20頁ほどもある資料を借受け、その場でさっと目を通して返却、しかも、後日その内容を正確に作品のなかに再現したというのである。
 記憶力自慢の人でも、コピーを取って手元に置いておかなくては正確な再現については自信を持ちかねるところではないだろうか。


 関ヶ原の話に戻るが、戦端が開かれる発端となったのは、秀吉の遺児 秀頼公を、秀吉政権の筆頭閣僚(大老)家康と政権の行政職(奉行)である三成が競い合って奉戴し、互いに主導権争いに血道をあげた、というところに始まる。
 小説によれば、秀頼公奉戴に名を借り、実は徳川政権樹立を画策する家康勢と、その野望を見抜いてひたすらに秀頼公への忠誠を尽すべく味方勢力の糾合に勤め、遂には家康討伐の軍を擧げて関ヶ原で破れ去る三成の悲劇
に終わるという結構となっている。
 家康は政治権力を持つ数百万石の大大名、これに対して三成は20万石足らずの、しかも大老の部下の一行政官に過ぎない。
 三成の唯一の大義は、世の大勢が家康へ靡くという実利の流れのなかにあって、なお秀頼公への忠誠--義---という一点にあった。しかも、家康軍に匹敵する、あるいはそれを上回る大軍を動かすに至る。
 三成の優れた能力は、秀吉の朝鮮出兵への動員力、兵站維持力、秀吉死後の兵力撤収事務能力等に遺憾なく示されたとされる。


 優秀な能吏であったことは間違いなかろう。しかし、彼の残念なところは、優秀な人間にありがちな「人の情」を解さないという点にあった、ということが司馬氏の筆によって明らかにされている。
 そのために、彼は秀吉子飼いの諸将からの恨みを買い、関ヶ原においても家康の切り崩し謀略戦によって、ひょっとしたら勝ち目があったかもしれない戦機を逸してしまった。


 この三成の忠誠心、優秀な頭脳とそれと背中合わせの人望のなさ------- こうした点から、彼は到底勝ち目の無い無謀な戦いに敢えて挑み、当然の如く破れた人物としての印象を持たれがちである。
 しかし、忠誠心のどこが悪いのか、人望がないなかで、なおよく10万の兵を動員しえたその組織力----- 人はすべての美徳を兼ね備えることが出来ない、ということを前提に考えてみると、何かそこに惹かれるものを感じないわけにはいかない。
 人生意気に感ず、という言葉があるが、ここで三成を思い出して何か不都合があるのだろうか。
 実利で動くだけ、と見える世の中は果たして正しいのだろうか。
 いまの福田政権のなかで、一人の三成を期待するのは時代錯誤なのだろうか。


<権兵衛の一言>
 関ヶ原敗戦後、ある村に潜んだ三成は、彼を匿った村民は残らず罰せられると聞いて、村民に自らを捕らえさせた。三成にも人の心はあったということが分かる。

関ケ原(上) (新潮文庫)

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