● 時事寸感(10)高齢者CM、英語公教育


◇ テレビCMと高齢者
 テレビなどで時代劇が不振である、と伝えられることがある。
  その理由は、時代劇の視聴者には高齢者が多く、従ってCMの効果(商品の売れ行き)が上がらない、というところらしい。
 高齢者は果たして貧乏なのか(逆ではないか)、という問題もあるが、テレビCMが若者中心に偏しているのでは、という問題もあるのではなかろうか。
 テレビ文化と囃されながら、実は商業主義そのものという正体が見えたようで味気ない(しかし、正しいのだろう)ものだが、優れた時代劇の灯を絶やさずに、老若を含む視聴者にサービスして頂きたいものだ。


 テレビには実に詰らない番組がありながら、しかも、それにもしっかりとスポンサーが付いているのも不思議なものだ。スポンサーは果たしてこの番組を視ているのかどうか、不審に思うことすらあるのだが、一説にはスポンサーは番組内容には興味がなく、ただ自社のCM
の受け取られ方にのみ関心を持つ、とされることがある(なるほど)。
<権兵衛の一言>
 テレビ各社のCMの作られ方、CMの挿入タイミング等にも、各社の節度が反映されているようだ。
 時々、CM担当者に中高年者を当てたら、もっとしっとりと心に響く作品になりはしないか、と思うこともあるのだが------。


◇ 英語に責められない幸せ
 産経新聞(08.2.2 黒田勝弘記者)によると、韓国の次期 李明博政権は「英語公教育」を打ち出し、例えば、小学校英語授業、国家英語能力試験などを実施したいとしているそうだ。その背景には、英語は国家競争力
の基本、生活向上の源、などという考えがあるようだ。
 韓国はもともと日本とは比べ物にならないくらいの超学歴社会で、英語熱は更にこのことに拍車をかけることになるだろう。


 日本では、大きな論議の末に(?)やっと小学校高学年への英語授業導入が実現されようとしているらしいが、いまだに慎重論は根強いものがある(私も消極派)。その理由は、日本語教育への影響は免れまい、という点にあるのだが、ほかに現実問題として、肝心の英語を教える立場(羽目?)となった教師は大丈夫なのか、ということもある。
 これは決して失礼なことを申しているのではなく、一度でも英語に苦しめられた経験のある人なら、誰でも抱く懸念なのだ。(英語が苦手で、かつ子供の英語教育
に熱心な親たちは、自分が苦しめられたからこそ、子供に英語を、という方向に向かっているようなのだが)。


 黒田記者は(英語が出来るようになった)韓国人から今後「日本人の英語は、相変わらず駄目だねえ」と言われるのが悔しい(?)」と記事を締めくくっている。 
 が、これには少し異論がある。
 日本でも一頃「英語第2公用語論議が起こり、これはすぐ消えたが、消えるには消えるだけの理由があって、つまり、国民はそれほど日常生活に英語など必要としていないからなのだ。
 中高年のオジサン、オバサンが、いまさら区役所に行って、辞書を引きひき、英語で書類を作成するなんて光景は、想像するだけでも寒気がする。
 英語が多少とも必要な学校や会社生活を卒業したら、あとは日本語だけでノンビリと余生を送らせてもらいたいものである。
 もし英語が必要となれば、(本当の意味での)中学英語の基礎がある限り、それから再学習しても何とかなるものなのだ(と信じる)。
 まして、英語の出来不出来が死活問題となるのなら、優秀な日本人のこと、たちまちにして英語をクリアしてしまうことだろう。開国した明治の日本人が、いまの日本人を遥かに上回るほどの英語上手を輩出したことを思い出すだけでよい。
 ある人は、日本人の5%の人が英語堪能であれば用は足りる、とか言ったようだが、そんなものなのだろう。


<権兵衛の一言>
 黒田記者の御心配は杞憂と申すべきものではないだろうか。
 しかし、私も英語で苦しめられた経験においては人後に落ちぬ自信?がある。その経験を基に英語学修書を綴ってみたいものだが、この分野では名だたる英語学者、英語使い、大学/予備校の名教師などがそれぞれ自信作を刊行していて、素人の言うことなど振り向いても貰えない。
 この屋上屋を重ねる状況のなかで、なお一筋の活路、新しい切り口はあり得る。それは「屋上屋を重ねる状況」が何故続くのか、そこに反省点はないのか、ということに目を当ててみることだ