時事寸感(5)「楽しむ」とは? ほか


◇ 前に書いたと思うが「「楽しいことをするのではなく、することを楽しむ」という名言がある。
 これは療養中の人、あるいは定年前後の人を励ます言葉として有効だと思われるのだが、もっと広く一般人の生活にも応用出来るもののようだ。
 普通、若い時は暇にまかせて、やりたいままの生活(楽しいことをする生活)を送るものだが、また、世間もそれを人生に順応するための準備期間として容認するようだが、若いからといって時間が無限にあるわけでもなく、やがて後悔先に立たずといった時期は必ず訪れる。
 考えてみると(年齢を問わず)後悔しないですむ生活なんてある筈もない。限られたものとはいえ「することを楽しむ」生活というのは、極めて有意義なものなのだ(何時気がつくか、の問題だが)。
 人のことは言えないが、暇潰しに困った定年者が、カルチャー教室を梯子するなんて図は、最も悲しいものの一つである。(間違っているかもしれない)。


 そういえば、ひとしきり騒がれた団塊世代の大量退職者の「その後」については、さっぱり消息が聞こえてこない。どうなっているのだろうか。
 団塊世代としての特別な生活技術や人生観を持っている、と周囲で勝手に思い込んだのがいけなかったのかもしれない。


自民党の大物/片山虎之介氏を破って当選した女性国会議員の不倫や提訴(された)問題が週刊誌を賑わせている。
 ところが、ある評論家は「そんなことを問題視するのではなく、これから議員として国民のためにどういう活動をするのか、見守っていくのが大切だ」という趣旨の擁護をしていた。
 これは如何なものか。
 こういう議員に、例えば、次ぎの世代の中心となるべき子供たちへの教育問題を扱わせていいものか。
 選挙民はどう考えるのだろうか。不思議なことである。


民主党参院での主導権を握って以来の国会論戦は
、従来になく中身と緊張感が感じられて面白い。
 ところが、新聞報道では、例えば、年金問題で野党に攻め立てられて政府側はタジラジ、といった表現がある。
 これはおかしい。
 タジタジだから政府側が完敗した、という意味に取ると、これは誤りだ。タジタジと慎重答弁は同義である、と考えるべきだろう。
 政治の世界でも「最期に笑う者が最もよく笑うもの」なのである。
 「情緒的」な報道を見かけたら、これは真実を伝えているのだろうか、とまず疑ってみることが必要であるように感じられる。
 逆に言うと、大きな声で断定的な発言は底が浅いのではないか、と疑ってみる必要がある、ということにもなる。


◇ インド洋での給油活動継続の与党案に対して、野党は、国連のお墨付きのアフガニスタンでの国際治安支援部隊への 参加を、対案として提案するようである。
 インド洋での給油活動継続案につては、野党は「情報不足」を反対の理由の一つとしている。一方、野党案
につては、憲法違反という懸念からの批判がある。
 ISAF参加への意欲の背景にあるのは、日本は資金だけ出すのでは国際的に評価されないという過去の失敗への反省があると思われる。
 しかし、仮にISAF参加を武力行使を避けた民生支援活動に絞ってみても、アフガン全土が危険視されるなかに自衛隊を送りこめば、何時戦闘に巻き込まれて死傷者
が続出しないとは限らない。
 そうなったら、民意は一挙に野党を離れるだろう。


 思うに、国際貢献を「ISAF参加」と「インド洋での給油活動」の二者択一で考えるのがおかしい。
 二つともに視野に入れつつ、最も現実的
な路線を選択するというのが、まさに政治のお得意分野ではないのか。


<権兵衛の一言>
 時間が経つにつれて、「党利党略」「選挙目当て」と見られない政治選択のほうに、国民の支持が傾くのではなかろうか。
 短絡的かもしれないが、「死傷者が出ない」というのも極めて重要な決定要因となろう。
 イラクサマワで、自衛隊員に一人の死者も出なかったというのは、まさに奇跡のようなものだった。