武士の情/がん難民

 知人(病気療養中)から「がんから5年」(岸本葉子)を薦められたという話は前に書いた。読んでみて「闘病記」というよりは第一級の「人生訓」であるという印象は、ますます強くなった。


 このたびの福田内閣誕生で思うことが二つある。
 一つは与謝野官房長官の退任。長官は癌手術を克服されて激職である官房長官に任じられたわけだが、最適任と思われる一方で、激務に耐えられるかどうか、が心配の種でもあった。
 病気が治ったからいいのではないか、と楽観する人がいるのではないかと思われるのだが、そんなに甘いことではない。
 私の在職中の経験だが、難病手術を終えて復職したばかりの人が、激職とされるポストに配置されるということがあった。「病み上がり」の人に何で酷いことを、と思うのだが、組織とはそういうことに頓着してはいられない無情のところだ。果たしてその方は間もなく亡くなってしまったと聞いた。
 私自身も病気入院後、激しい仕事が予想される職に回され、どうなることかと不安に駆られたが、幸い(?)その仕事が中止となって、今では大袈裟ではなく命拾いしたと思い起こす事の多い日々である。


 もう一つは、もう全く忘れ去られたかのような感じのある安倍首相の退陣劇である。
 体調不良による辞任であることは、ようやく理解され、政治的な業績についての評価も行われているところであるが、なお「放り出した」「無責任辞任」という悪評は尽きない。
 前にもしるしたが、私は「無責任に放り出した」という見方は取らない。最後の最後まで体力の尽きるまで頑張った果ての辞任だった、というのが尊敬の念を込めての安倍退陣観である。
 ミャンマーで取材中に倒れた報道記者が、カメラを手から離さなかったという話を思い出す。


 さらに申せば、悪評を浴びせる人は「体調不良」とは如何なるものなのかを体験したことのない幸せな人なのである。そういう人の言葉を、私は頭から受け入れることは出来ない。
 少なくとも「武士の情け」を知らない人の言葉ではあるまいか。


 人生訓としての「がんから5年」には何が述べれているのか。
◇ 著者/岸本葉子氏は、すべてに行き渡って配慮の及ぶ優れた人で、人生訓に鈍感な私は敬服させられるばかりの先達であるが、その人にして、自分の先々の生活設計について「自宅の近くに病院があること」という視点を欠いておられた、と申されている。
◇ 癌手術/退院を経験されてから、退院は慢性疾患を抱えた人生の始まりである、という(当たり前の)生活
感覚を持たれて、その後の生活を律されているのだが、それがなかなか理解されない苦衷を語っておられる。
(世評のなかには、闘病体験を売り物にしている、とい心ないものもあるとか)。
 著書によると、難病体験者は「希望」を持つことが必要だと訴えるに際して、それは癌患者に限らず(病気と隣り合わせの)世人一般についても大切-----と考えたところ、新聞/雑誌編集の人から「どうしても癌体験者の話に絞らないと訴求力がない」と言われてしまったという。
 病気を体験したことのない人は、つまりは「あちら側の人」(いずれ分かるにしても)と感じたであろう岸本氏の無念さ、もどかしさが伝わってくるような文面であった。


<権兵衛の一言>
 癌難民という実態は確かに存在する。その怖さは「あちら側の話」と思っていたことが、ある日突然に「こちら側の話」に取り込まれてしまうところにある。しかも二人に一人の割合で。
 人生訓とせざるをえない所以である。