象の背中を誰が見る?(その2)
余命半年の人を扱った小説「象の背中」の映画化が進み、この秋に公開されるという(産経 07.8.28)。
主人公は俳優の役所氏。氏は撮影のために7キロ減量したという。「7キロ減量」というのは、極めて厳しい現象であって、(失礼ながら)知人を例にとると、まるで別人のように、見る影もなくやせ衰えて、面会すら断りたくなるほどの状況であるという。
知人の話によると、「お見舞い」をしたいと希望する善意そのものの人たちを断るのに苦労するという。
お見舞いしたい人は、それによって患者が勇気付けられるに違いない、と思い込んでいるから、見舞いを断ったりすると、まず怒り出して関係者を悩ませることになる。
結論からいうと、お見舞いしないのが最高の見舞である場合もある、ということだ。その理由は;
◇ 患者は安静/治療のために入院するのであって、重い症状の場合には、見舞いはそれを妨げることとなる。それを善意のお見舞希望者に納得させるのは、時として喧嘩の原因ともなる。悲しいことだ。
また、いつ現れるか分からない見舞い客を意識しているだけで、患者は消耗してしまう。
◇ 見舞者が持参する果物、お花類は患者にとって有害である場合がある。つまり食べられないもの、不快感を誘うもの、感染症を齎すものなど-----事前にこういうことを周知することは不可能である。
◇ 見舞客が去った後、患者が体調を崩したりした場合、誰の責任になるのか。
◇ 見舞客の善意は有難いが、患者は痩せ衰えた自分の姿を人に見せたくない、というのも当然である。
しかし、こうした心の機微を善意の見舞客に理解してもらうのは難しいことだ。
結論として、患者の身内の誰かが悪役となって、善意の人たちの非難をクリアしなくてなならないこととなる。
悲しいことではないか。
この「象の背中」の主人公は、自分から自分の非運
を明らかにして、関係者に触れてまわる。(最後の「生き甲斐」でもあるのか。ここは理解が難しいところだ)。
この特集で目を惹かれるのは、人によってこの小説を
読んで「号泣した」という表現が見られることだ。
「号泣」とはなにか」。
私の感じからすると、いままで「死」を人事のように思っていたことを、いきなり眼前に突きつけられて動転したということであろうか。しかし「いきなり」というあたり、この人は、どこか死を他人事をして見てきたこと物語っているのではないか。
「号泣する」余裕がある、というのが気になるところである。(幸せな人、と言っては叱られだろうか)。
この産経特集には、「余命半年」なら私ならこうする、というコメントが読めるのが興味ある」ところだ。
拝見してみると、まことに「余裕」のある過し方で、なるほどとは思うが、とても現実的とは思えないものが多い。(しかし、それでいいのだろう)。
知人の例にどう向き合えばよいのか。
正しい答えがある筈もないか、一つ参考になるのが、日野原氏の「生きかた上手」であり、もう一つは書店で見かけた、上野千鶴子「おひとりさまの老後」。
これは、女性向きの本らしいが、すべての人に取って、自分の行く末を考える際の道しるべになるもののようだ。
世の常識を遥かに超えるような記述も見られる。例えば、人の「死に目」に会えずともよいのではないか、といううような考えには、目を開かされるようなものがある。一読しておく必要があるように感じさせられた次第。
<権兵衛の一言>
最近、テレビに今秋公開のドラマ「生きる」の予告編
をチラチラと見かけるようになった。
「生きる」では、どうしても主演/志村喬の印象が強烈に残ってしまうのだが、リメイク版「生きる」の松本幸四郎が、ブランコで「ゴンドラの唄」を歌うシーンが出てくると、どうしても見てみたいなあ、という気になってしまう。
「象の背中」と、何か」関連があるのだろうか。
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