音楽閑話(10)ゴンドラの唄 ほか

 最近、感銘を受けた歌は、外国人女性歌手 アンネット・ストウルーナが歌う「ゴンドラの唄」である。
 彼女は日本の歌曲を主なレパートリーにしているらしく、この世界では有名な存在であるとのこと。何故日本をメインとするのか、おいおいと情報を得たいと思っている。
 私が耳にしたのは「初恋」「この道」「証城寺の狸囃子」等のほか「ゴンドラの唄」。その歌唱(ソプラノ)
は、訥々とした、まさに日本民謡にふさわしいものだが、一聴、心惹かれる不思議な魅力がある。日本語の抑揚や歌い回し(こぶし)といった問題を遥かに超えている。
 何よりも日本語歌詞の意味を正確に理解した上で、しっかりと歌い込んでいる様子が切実に窺われるのに感じ入った。
 ゴンドラの唄は圧巻であった。


 いまは外国人にも尺八の師匠がいるくらいだから、日本の歌曲をメインとする外国人歌手がいても何の不思議もない。
 思えば、日本人は器楽/声楽等の分野で西洋のレパートリーを我が物にするのに、何の疑念を抱かずに精進してきた。
 ただ、評論家は、日本人が西洋の音楽を表現するのに、その心を心として体現出来ているか、といった論調で、演奏者を批評するのを常としてきた。
 西洋音楽の心とは何か。それを表現出来ているかどうかを、誰がどのように判定出来るのか。


 多くの外国人が日本の音楽や芸能を体現しているいま、問題は「如何に人の心に感動を与えているか」-----という全うな視点からの評価が、やっと正道として認められるようになってきている、と感じられる。


 別件だが、数千人を超える大ホールが普通のこととなっている現在、オペラにマイクを使うのは邪道とする従来からの考え方にも見直しが迫られているように思う。
 大ホールで歌手のカ細い声や割れた声を聞かされたりするよりも、隠しマイクを上手に使って、聴衆にいい声
を楽しんでもらう、という考え方はどうなのだろうか。現にマイクを(聴衆が気付かないように)使用しているホールが存在しているという。
 また、ミュージカルとオペレッタの定義の違いは、マイクを使うかどうかによる、という話がある。
 こういう音楽業界の定義は別として、音楽を楽しむ聴衆に定義させたらどういうことになるのか。
 楽しければ、そんな定義などどうでもいい、という声が聞こえてくるような気がする。


 さらに別件。
 最近テレビで拝聴したオーケストラコンサートで、偶然なのかどうか、二つのオーケストラがベートーヴェン「第7交響曲」を取り上げていた。
 この「第7」は大人気音楽漫画「のだめカンタービレ」のテレビドラマで使用され、CD売り上げも好調なのだという。
 これがクラシックファンの裾野を広げてくれることに繋がってくれれば言うことはないのだが。


<権兵衛の一言>
のだめカンタービレ」では、曲目ばかりか指揮者の人気も左右するほどの勢いだとか。
 
 

のだめカンタービレ (18)(講談社コミックスキス)

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