介護の心/人生の答

 また知人の話の受け売り。しかし、そう単純簡単な話ではない。
 必要あって知人は介護の必要性を申請し、サービスを受けられることとなった。介護の任に当たる担当の方々はいずれも善意の方ばかりで、その心根には感謝あるのみであるが、コムスンの例に見る通り、この世界にもいろいろな葛藤がある。
 コムスン騒ぎでその世界が浄化されるのはいいが、予想通りというか杓子定規の規制が厳しくなって、その影響は「吉」と出るとは限らないことが、特に介護現場では顕著に現れたようだ。


 サービスにも規制があるのは当然だが、介護を要する
本人以外に家族が同居している場合が問題である。
 介護は必要とされる本人に施されるのが当然であるから、例えば、本人が通院で不在の場合はオミットされる。これは分かるが、本人以外に健康な家族が1人でも同居している場合に問題が起こるということが、初めて理解された。
 つまり、家庭内で本人と使用を共用している部分の、掃除を行えるかどうか、が問題となるというのである。
 例えば、本人と家族が共用しているトイレは「掃除」していいのかどうか。
 これは冗談のようであって、結構論議を呼ぶ問題であるらしい。
 じゃあ、本人の個室を家庭内に拵えて、そこにトイレ、 浴室等を作り込み、かつ、鍵がかかるようにすれば「本人だけを介護する」という規則の趣旨に添えるとでもいうのだろうか。


 大事な税金を使うのだから、こうした議論に(第2のコムスン事件を防止するために)精出すのはいいとしよう。
 私が懸念するのは、そうした「心配症」が習い性となって、担当職員たちの心を萎縮させ、何な事態が好転しても従来通りのマイナス思考にのみ囚われてしまうのではないか、ということである。
 介護の現場には、制約のある環境のなかで、なお夢を失わずに頑張ろうとしている若い職員が少なくないと想像出来るだけに、こうした問題点は明るい環境で論議されるのがいいのではないか、と思われたことであった。


 話は介護のことから医療のことに移るが、知人の医療体験を聞いていて、実に様々なことを連想させられる------ その多くはマイナスイメージを伴うことが心を苦しめるのだが。
 ある人の実感によると、大病院(つまり、西洋医学の拠り所)で特筆出来るのは「検査」技術、それに、それらの知見に基づく施薬施療の素晴らしさであるという。
 これには誰にも異論のないところだろう。ところが、問題はそこかあら先の部分だ。
 知人から医師の示した診断書類を見せてもらったのだが、そこに書かれてあるのは病状の診断、それに必要な投薬の実に詳細な説明文である。
(病状診断にも、「この病状は興味を引く」などと書かれてあったりするが、人間の病状が「興味を引く」とは何事か。少し無神経ではないのだろうか)。
 「投薬の実に詳細な説明」とは、例えば;
◇ この薬の治癒率は◯◯%。
◇ 副作用はこれ、これ、これ、これ-----
(微に入り細にわたって記載されている)


 これで投薬に当たる病院側の責任範囲を示したものと言えるのだろう。
 その薬を服用するかどうかは患者/家族の自己責任である、ということになる。
 これが現実の精一杯の姿なのであろう。その診断書
を眺めていて、正直、複雑な思いを抑え切れなかった。


 正確な診断の延長例が、パソコン画面による患者への説明である。昔に比べて長足な進歩(遠隔地での診断も可能、記録の蓄積/再現も即時)である反面、医師と患者との人間的な対話がなお一層望まれるのは無下に否定出来ない面があろう。


 問題はそんな感傷的な部分に留まらない。
 正確な診断(西洋医学)に続く施療には、西洋医学を超えた分野がありはしないか、ということである。
 多くに場合、患者は西洋医学に救いを求め、実に多くの命が救われているが、なお限界はある。
 限界が来て初めて思い出されるのが東洋医学(漢方)、免疫療法、食事療法等ではあるまいか。
 実のところ、ことは人体に関することであるのだから、西洋医学と共に、他の療法分野にも「当初から」関心を持ってしかるべきではなかったのか。
 これが想起されるのは、多くの場合、「手遅れのケース」でないことを祈るのみである。
 例えば、癌の場合の抗ガン剤。これは有効とされる反面、人間の自然治癒力の味方である筈の白血球を痛めつけてしまうのである。
 「副作用」とは何なのであろうか。西洋医学では「やむをえない」とされているらしいが。


<権兵衛の一言>
 医療問題/現場に詳しい柳田邦男氏の著作を読んでみたいと思う。例えば「人生の答えの出し方」。

「人生の答」の出し方 (新潮文庫)

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