美しい国とは

 安倍内閣のキーワード「美しい国」がようやく我々の日常の生活圏になじんできたかのような今日この頃。
 しかし、開き直って「美しい国」とは何か? と問われると返答に窮する。
 久しく国民にはなじみの薄かった言葉のようで、その抽象的、観念的なところが我々を戸惑わせる。少し前に登場して爆発的な人気を得た「品格」という言葉のほうが、まだしも分かり易い(ような気がする)。


 果たして「美しい国」は論議を呼んでいて、作詞家・阿久悠氏によると「何が美しいかを示せ、示せ」と攻め立てる人がいるのらしい。
 しかし、氏は「美しさ」を具体的に示したとすると、今度は一転して、人の生き方や心の持ちようまでを限定するのは何事か、と反対するに決まっている、と、流石、既に先を読んでいる。


 少しニュアンスは違うが、物事を説明するのは 6 割に留めておいたほうが万事好都合、と私は上司から教わった。口数が多いと不必要に揚げ足を取られ、出来るものも出来なくなるのだという。(私のブログは牛のヨダレのようで、上司の教えに違反しているかもしれない)。
 元・小泉首相は説明が足りない、とよく非難されたものだが、やはり、一定のポリシーに従っていたのか、と納得させられる。


 ところで、一国の首相が「美しい国」という言葉をわざわざ主唱するのはよほどのことである、と阿久悠氏は言われる。
 政治家にこういうことを言われるのは庶民の「恥」である、と。しかも、その恥を忍ばねばならないほど「迷惑」が闊歩している、そして、その迷惑を制するのは法ではなく「節度」であり、日本人からこれが失われたことで、美しさが支えられなくなった、としている。
(う〜む、難しいものだ)。


 折よく、これらに符合するかのような指摘に出会うことが出来た。脚本家・石堂氏はその著書で、映画「東京物語」(小津安二郎監督)を口を極めて推奨しているのだが、その理由は「日本人を知りたければ、漱石を読み、小津映画を見るのが一番」としているのだ。
 「東京物語」で小津監督は徹底して( インテリではない)庶民を観客として、庶民の生活を描いた。
 描かれた庶民の習慣、感性、礼儀、作法、道徳などは首尾一貫して小津だけの世界であり、外国人に日本人の姿をありのままに伝えるよすがとなっている。


 ここの例えば「礼儀、作法」という言葉を「節度」(美しさ)に置き換えてみたらどうであろうか。
 外国人の多くも、安倍首相の「美しい国」を理解しかねている場合もあろうから、小津映画は「男はつらいよ」とともに、日本国のイメージを世界に伝える武器としての有用性が発揮出来るかもしれない。
 広報担当首相補佐官殿は、どう思われるであろうか。


<権兵衛の一言>
 ちなみに、石堂氏の慧眼は、同じ日本映画でも、黒澤作品は、善と悪とを対立させるキリスト教的なものを背景としている点で、小津映画と峻別している。
(ますます難しくなってきた)。