評論に先立つべきもの

 先に「論功行賞内閣の功罪」で、私は次ぎのように愚痴ってみた。


(*)そして、決まったように、新内閣の門出を祝って健闘を祈る、といった筆致が見られないのを不思議に思う。国民が前途を託する内閣を激励しないという風潮はおかしいのではないか。


 産経新聞朝刊(06.9.30)を見たら、作詞家・阿久悠氏が嬉しいことを書いてくれている。(「阿久悠書く言う」)。
 ----- たとえば、新総理が誕生した時など、いわば国の命運がかかっているのに、期待、希望、歓迎などの単語を使う人はめったにいない。


  阿久悠氏は、おエラい識者がインテリ風を誇示するかのように、決まって新総理や内閣をコキおろす風潮を揶揄しているわけだが、私のような駆け出しブロガーと違って、遥か以前から御意見番としての立場を堅持してこられたのだから、「私と同じ意見だ」などと喜ぶのもおこがましい限りだ。


 ところで、阿久悠氏は作詞家だ。作詞家が何故畑違いの政治/時事評論に口を挟むのか。
 我ながら、こうした疑問は愚問だと思う。
 評論家が評論するから、その意見が評論として成り立つのではなく、評論以前に政治や時事についての鋭い批評眼を持つからこそ、それを表現した意見が評論として通用するのだ。
 松本清張氏が日本史について優れた評論や小説を発表すると、日本史家から煙たがられ、氏の意見は外野のそれとしか扱って貰えなかったというが、推理小説家が日本史について口を挟んではいけない、などという決まりはどこにもない。
 その是非はともかく、松本氏の存在が、どれほど日本史についての我々の興味、知識、関心を深めてくれたことか。


 阿久悠氏の存在感を、もっと我々は重く見なければなるまい。
 石原東京都知事や田中前長野県知事は、ともに小説家出身。大学工学部出身で未来学者、失敗学専門学者、経営学者になった人は多く、なかには外務大臣になった人もいる。
「畑違い」と簡単に言っていいのかどうか、素朴な疑問を誘う。
 数学者には美的感覚や直感が先行しなければ駄目だとされるし、ヴァイオリンの名手アイザック・スターンは、新聞をよく読んで世情に通じなければ、と生徒を諭した。同じような趣旨で、作曲家・黛氏は「音楽家は音楽のことしか知らない」と言ったそうだ。


<権兵衛の一言>
 おエラい識者は、阿久悠氏の意見までもコキおろしてしまうのではあるまいか。再チャレンジをバネにして頑張らなくては。