渡る世間とミクシイ

◇ ミクシイ会員でもないのに、ミクシイについて分ったようなことを書くのは、少しは自粛しなくてはならないところだが、週刊新潮(9/28号)に面白い関連記事があったので、これを御紹介した後に「自粛」することにした。


 分かっている人には自明のことなのであろうが、週刊新潮によると、ミクシイはサービス開始後僅か数年しか経過していないのに、もう既に「ミクシイ依存症」なるものがあるという。
 もっとも、ネット分野の開発速度は著しいものがあるから「数年」というのは既に充分過ぎる時間なのかもしれない。
◇ 依存症----- 嵌まるといえば、その昔のパソコン通信時代から立派に存在したといえる。
 例えば、ニフテイのフォーラム/会議室には熱烈な愛好者がいた。やがてインターネット時代が始まって「HP」が愛好者のなかでの先端的技術となると、それに嵌まった人から、HPを持てない者は「ホームレスだ」などと言われたりした。また、HP来訪者の数が、誇らしげに語られたものだ。
 その頃のパソコン通信画面には「是非、HPを見に来てね」、「拝見しましたよ」といった会話が踊ったりしたが、肝心のHPの内容ににつての対話は皆無に近かった印象がある。つまり、難しいHP設置は名誉の勲章といった感じだった。
 次いでブログ時代が来ると、HPと同じような光景が見られたが、来訪者数を誇るというような気配は流石に鎮まり、その代わりブログに深く嵌まり込むという感じが強くなったように思う。
 個人が絶対に「没」のない投稿欄を持てるということは、それだけ魅力的だったようだが、一方で、ブロガーの心情を脅かす迷惑コメントの類も無視出来なくなってきた。
 そして安全/安心をセールスポイントとするミクシイの登場と急成長。


◇ そこで、勢い余った会員たちが嵌まった先が「依存症」ということになる。また、これは、単なるネット対話愛好の域を超えたものであるらしい。
 曰く;会員自身が主宰する「コミュニテイ」という頁の更新に、ことさらに熱くなる、自分のサイトに友人を登録して、その数を誇示する、------ しかも、それらが従来のHPやブログの枠に納まり切れないところが、目につくのらしい。
◇ 更新熱の裏側には「やたらコメントが欲しい」「ミクシイなしでは生きられない」寂しさがある、とも分析されているが、こうなると最早手指の一部となったケータイを片時も手放せない状況と似てくる。


 週刊新潮は警告している。
 会員登録は実名とは限らない。ミクシイは既に対策を講じているとしているが、会員が500万を超えれば、最早安全なコミュニテイとはいえない。マルチ商法まがいの危険性もある。
 既会員の紹介を経た会員ばかりとはいっても、紹介が重なった先の会員は、既に遠い友人である。
◇ ネット画面等で私が実際に見聞した「友人」とは、例えばこういうものだ。
 ----- 画面上で肩を抱き合わんばかりに親密さを振りまいていた二人が、オフ等でイザ実際に対面してみると、互いに言葉もなくモジモジするばかり。
 そして後日の画面では決まって「先日はせっかくお会い出来たのに、ゆっくりお話出来る時間がなくて残念、次回は是非」。


◇ 警告は疎かには出来まい。
 しかし、ミクシイが特に危険であると言い切ることも出来ない、と私は思っている。
 つまり、ミクシイといえども、それが渡っている世間では、良い人も悪い人も仲良く?混在/共存し、我々が既になじんでいて自己責任が求められるネット社会と同類なのだ。
 極端な仮想例を擧げれば、会社の隣席の同僚が、実は互いに仮名で対話し合っているネット友達であり、同時に、夜間、罵詈讒謗をぶつけ合っているバトルの好敵手であるかもしれないのだ。


◇ なぜ、こうしたジェキル/ハイド現象が起こるのか。
 その背景の一つとして、阿久悠氏の次ぎのような解説が当て嵌まるように思われる(産経新聞、06.9.23)。
 ----- 愛称や略称(ネット社会でのハンドル/渾名)で呼び合う社会は、フルネームで人を感じたことのない関係でしかなく、そこでは人の立場を重んじたり、敬意を払ったり、緊張を示したりする必要があることを学習出来ない。
 これは、何らの責任も問われない緩い社会と思われる。


 インターネット社会の謡い文句は、時間、空間、立場、肩書き、年齢、性別等を超えて、豊かな対話が楽しめる場-----の筈であったが、実はミクシイ同様に裏のある社会であることを教えられる。


<権兵衛の一言>
 ブログ/ミクシイ時代にもやがて終りが来る、と予測する声がある。
 交流がなくなるということではなくて、交流の用具が変わるという意味であろう。
 かくて、ミクシイの教訓は続く---- どこまでも。
(そろそろ、「自粛」の時が来たようだ)。