同人誌 & ミクシイ

 手元に1冊の同人誌が届いた。前にもしるしたかもしれないが、万年筆愛好家の同人誌「ふえんて」である。
 既に39号(季刊)、約50頁/ワープロ版の立派なもの。
 もっと派手にご紹介したいのだが、この同人誌は、原稿集め、ワープロ稿起し、印刷、製本、発送、など、すべての作業を一人の篤志家が自前(無償)で行っているので、これ以上に負担を増やさない為にも、宣伝は自粛することにしている。


 同人誌が可能な分野で連想されるのは、最近評判のミクシイである。ミクシイは不特定多数のためのブログとは少し異なり、自分の素性、姓名などを明らかにし、さらに既会員の紹介を得て初めて加入出来るのだという。
 そこから来る一定の安心感が、多数の会員を集めている要因だと分析されている。
(*)ミクシイをさらにコンパクトにしたものに「メーリングリスト(ML)」があるが、ここでは便宜上ミクシイに含めておこう。


 この安心感は頼りになるのか。
 これは別に、ミクシイに水を差すつもりで言っているのではない。人が集まるところ、意図するしないに拘らず、そこには必ずある力が働いて------ つまり、正、反、合、といった力学が及んで、その集団での言動にある彩りを添えるのである。
 似た者同士集団の近親結婚には、それを歓迎する勢力と排除しようとする勢力が拮抗し、大勢として「合」の方向にに導かれる感がある。
 ミクシイは、インターネット交流文化が生んだ一つの成果であろうが、必ずしも成功が約束されているわけでもない。それは会員の意識や努力次第である、ということでは、これまでのニフテイ フォーラム、HP、掲示板、ブログ等と違いはないと思われる。


 ワープロ/インターネットが普及する前の、所謂 古典的な同人誌、つまり、複数の文学好き/文章家志望が集まって、ガリ版活版印刷で同人誌を発行し文運を競った時代、そこにミクシイと異なるものがあるのだろうか。
 文章が好き、という点に違いがないとすると、文字を書く道具が(主に)ワープロになっただけで、問題状況はあまり変っていないように思われる。


 この由緒ある同人誌の生態を、あますところなく描破し尽した作品に「大いなる助走」(筒井康隆)がある。
 この小説は、文学賞(芥川/直木賞等)を目指す文学青年たちが集まる同人誌での生態、裏工作事情、文学賞選考の経緯、そして選考委員殺害事件などを扱ったものだが、文学賞を主宰する出版社から出版されているというところが、まず世間を驚かせた。


 当然、同人誌に掲載すべき作品の事前審査/合評会の様子なども描かれるのであが、そこで交わされる言葉の激しいこと----- 人の姿の見えないパソコン画面ではなく、生身の人間同士が対決しあう葛藤であるだけに、我々が知っている誹謗中傷言葉のレベルを遥かに超える凄みがある。


 心を衝かれたのは、同じ仲間が文学賞最終選考に落ちたと聞いて思わず「万歳!」を叫ぶ同人たちの姿、それから、何時になっても芽が出ないのを自嘲して「おれたちはいったい何をしてるのかな」と嘆く場面。
 販路が狭く限定されていた昔の同人誌と違って、いまのインターネット上の作品展示は、世界に向けて発信されていることになっているが、その実態はどうであろうか。
 「電車男」や「実録鬼嫁日記」のような成功例があると聞くが。


 後日、「大いなる助走」は映画作品となり、私はたまたま封切り日に原作者、俳優たちが映画館のステージに居並ぶ場に行き合わせることが出来た。
(*)映画の背景音楽として流れたのは、サラサーテ「ハバネラ」という超絶技巧ヴァイオリン曲だった。映画が描く地方の町や人物像とどういう繋がりがあるのか---- 恐らく監督の好みかもしれぬが----- 知りたいものだと思っている。


 映画館で司会者が発した随分と際どい質問などがあったのだが、昔のことなので失念してしまった。


<権兵衛の一言>
 ミクシイは昔の同人誌と似ているのか、それとも全く新しい用具なのか、自分でも何を言おうとしているのか分からなくなってしまった。
 まあ、(私の)ブログは脈絡もなく、無責任に何でも言えるものだ、ということにしておこう。