音楽閑話(3)/大人の楽器学習

◇ 昨今の音楽事情について、まことに目出度いと思われることは;
 ◯ 昔、年寄りの冷や水と揶揄された音楽/楽器学習、それもクラシックのそれが必ずしも笑われなくてすむようになったこと。
 ◯ バブル期のどさくさ?に紛れて、立派な音楽ホールが整備されたこと。
 ◯ オペラがアマチュア主催にまで普及し、音楽大学のあり方にまで影響しているように見えること。

 
 さて、大人の学習は楽器に限られることはないが、特に団塊世代の大量定年退職時代を目前にして、楽器----それもヴァイオリンなどの弦楽器は如何相成るか、を考えてみた。
 ヤマハなどは賢明にも、以前から少子高齢化時代を見越して、大人の楽器学習教室の全国展開を目指しているようだが、学習指導の大任を担う教師の「意識」、それに教材については、まだ整備途上という声がある。

 
 大人の弦楽器学習は、困難さは同じでも、プロや独奏家を目指すこともある子供の学習の場合とはその態様に違いがある。
 たとえば、プロになれずともよいから、そこそこに楽しめればよい、という場合の学習は如何にあるべきか。
 実は、ヴァイオリンなどは、そこそこに楽しむために、そこそこ学習したのでは、そこそこに楽しむことも出来ない、というのが厄介である。
 かといって、プロ養成なみの厳しい指導をしたのでは、やっと苦労の多い世事から解放された中高年はサッさと逃げてしまうだろう。


◇ 稽古ごとのなかには、「型」の学習、熱意等を反映した「段位の免状」等を授与して学習を鼓舞するシステムがあり、これはこれで実に素晴らしいことだと思うが、これがヴァイオリン学習に適用出来るかといえば、なかなかそうはならない。
 当り前のことだが、弦楽器は音が出て初めてナンボというくらいのもので、音の上手下手(所謂、鋸の目立て)は3歳の幼児が聞いてもすぐ分かる。
 ハイフェッツは、赤ちゃんの頃、下手な弦の音を聞くと泣き出したというから、免状がいくらあっても役には立たないだろう。

 
 この「そこそこ学習して」「そこそこ楽しむ」というのは実に難題であって、私には妙案がない。せめて私の隣家に弦楽器学習者がいないことを願うだけである。
 教師もそこそこに努力するのであろうが、結局は学習者本人の自己責任ということに落ち着くのなら、身も蓋もない話となるが、真実はこれに近かろう。
 もし、学習者が大人で、隣家に対する配慮と罪の意識がいささかでもあるのなら、それなりの学習努力をすべきなのであろう。(大人なればこそ、出来るかもしれない)。
 最近は学習方法も進歩して、誰でもある程度までは進歩出来るようだが、ある時点で才能がないと分かったらどうするか。特に音楽大学生の場合は(冗談ではなく)問題となろう。


◇ 大人の学習の場合も、この点について教師にはいささかの自覚と責任が求められるのではないか、と私には感じられる。そういう教師にこそ、私は教えを乞いたいと思うが。
 つまり、教師/教材には、学習当初から「挫折」「スランプ」対策が盛り込まれていることが望ましい、ということだ。
 実はここが難しいところだが、「挫折」を最初から念頭に置いておくことが、何か「後ろ向き」のように感じられるのではないだろうか。
 しかし、経験豊かな軍司令官には、戦闘開始前から、戦闘中止のタイミングや終戦処理のことが頭にあると言われている。単なる「行け行けドンドン」では猪突猛進と変わるところがない。


◇ 楽器学習での挫折防止、意欲促進面で、有効だと思われた例が一つある。
 アマチュアオーケストラには稀な例だと思われるのだが、特に初心者を対象にした団体があった(残念ながら過去形)。
 ここでは、楽器を買ったばかりで「持ち方」も覚束ない人が、堂々とオケの前面(普通なら末席)に居座り、その周囲をベテラン奏者たちが護送船団のように取り囲んで演奏をサポートするのである。
 曲は、お子様ランチのように手心を加えたものではなく、例えば、モーツアルト交響曲第40番とか、「アイネクライネ ナハト ムジーク」など、大人の鑑賞にも耐えうるもの。

 
 ここで初心者は、教室では絶対に学びえない(教師が、まずやらせようもない)楽しい合奏技術の呼吸(の一端)を会得するのである。(大事で、かつ難しい「ごまかし方」も)。
 ここで体験出来た「音楽する楽しさ」は、まず忘れられない。
 驚いたことに、このオケ出身者で、5年くらいでメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲をクリアしてしまった人がいる。この人は多分、挫折ということを知らずに学習を重ねることが出来た幸せ者と呼ぶことが出来るだろう。
 大抵のアマチュアオケでは、看板だけは「初心者歓迎」とか「市民に開放」とかを謳っていても、実際には戦力にならない初心者を指導すというよりは無視してしまい、退団だけならよいが、学習意欲までも喪失させてしまうこともあるのだ。


<権兵衛の一言>
 上記の例は、自己責任とだけいってすませられないことのように思われるが、どうだろうか。