いい加減な?留学

◇ 愛読書「天平の甍」(井上靖)を再読し、新たな感銘を得た。
 物語は、唐の名僧 鑑真の日本への招聘に尽力し、歴史の彼方へ消えていった数人の日本僧を内容とするものだが、解説(山本健吉)によると、小説のなかで彼らは「遠景に小さく、蟻のような姿」として捉えられている。井上靖の歴史ものが感銘を齎す所以である。

 主人公の僧・普照は名僧招聘の命を受け、第九次遣唐船で入唐し、以来、何回もの難破などの失敗を重ねながら、20年後の第十次遣唐船でやっと所期の目的を達成する。
 この20年という期間には驚かされるが、4隻の大船と500人からなる訪唐団を組織するのは、当時としてはアポロ計画にも比すべき国家的大プロジェクトであったに相違ない。
 しかも生命の保証はない。文中にも互いに「水杯をかわす」という表現が見られる。

 遣唐団という留学組には当然に唐の進んだ文物、仏教を学ぶという目的が課せられているのだが、生命の危機と長大な年月という重圧は、かれらの運命に様々な波紋を齎す。
 真備、阿倍仲麻呂といった勝ち組がいる一方で、何の学問的成果もなく帰朝するもの。早くから学問を諦め、筆写した膨大な経巻類を故国へ運ぼうとして、空しく海に沈めてしまうもの。志を得ず病没するもの、出奔して行方知れずとなるもの------。
 後者は、新たに入唐した気鋭の留学僧たちから、やや白い目を向けられる様も描かれている。

 では、後者は明らかに留学失敗組だったのか。
 井上靖も歴史の目もそうは見ていない-----つまり「留学」というものをどう評価しているかが、この小説の見所の一つであるように感じられるのである。

◇ 入唐した第十次遣唐船が帰国の途につこうという時、普照は、学問を放棄し唐女と結婚した仲間の僧のために帰国の便を図ってやろうとする。
 相談を受けた遣唐船側の要人は、意外に簡単にこの要望を受け入れる。その理由は;
 -----「唐女を妻にしているというだけで、いい加減なことを頭に詰め込んだ連中より、充分帰国の資格があるだろう」というものだった。

 つまり、頭の中の観念的なものよりも、実生活の体験のほうが役に立つ、ということであろうか。
 「いい加減な?留学」といった場合の「いい加減」とは何か。ここには、現代にも立派に通用しうる問題提起がありはしないか。

◇ 私の見聞したところをしるしてみよう。
 ある企業では、毎年海外へ研修生を派遣(半年)していたのだが、特定のテーマを与えたり、海外大学で学位を取らせるといったことはせず、研修テーマと行動は全く自由、帰国後は簡単なレポートのみ、という具合であった。
 これは学問よりも生活実体験優先という考え方で、私は素晴らしいことだと思っていた。
 例えば、海外にある制度、規則等があったとして、それを直輸入するのでなく、海外の人が何故それらを必要とし、どういう仕組みでそれらを形にし、どう実施してどう評価しているのか、これらは現地に生活して、現地の人と同じ体験をしてみなくては実感出来るものではない。

 しかし、この素敵な制度も次第に風化し、お定まりの実利/効用主義に染まって、まず、研修テーマが特定され、派遣期間が短縮され、研修生は与えられた予算で関連テーマの参考文献を購入してくることが制度化された。
 ただ海外で遊んで見聞を広めてくるよりも、こうした形の研修のほうが効果がある-----と思う人がいるのだろうが、私は何か寂しい気がする。
 こういうことなら、気の利いたシンクタンクに依頼して、海外文献を輸入し、翻訳/要約して貰ったほうが、より効果的だ、と思えなくもない。
 人材育成の芽の多くは、摘まれてしまうことであろうが。


<権兵衛の一言>
 最近のテレビで、外国人を妻とした日本人夫婦の行状記が放映されるのを見る機会がある。
 学者や特派員に頼らない、新しい形の東方見聞録として、意義のあることであろうか。